人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

恋愛面で環境が変わった話

数週間前、氏こと(元)彼氏さまと別れた。

2年2ヶ月であった。まあ長いこと付き合えたもんだ。

幹部時代はお互いなくてはならない存在だった。お互いがお互いに依存していたと思う。幹部が終わり半年が経ち仕事量も格段に減って、それでも幹部時代のウェイトのまま互いに依存しあっていた、ふりをしていた。それが相手にとって重荷になっているともわからず。

そして、話し合いをした結果、友達に戻るのがいまの自分たちには最適解であると結論が出た。

それからは早かった。するっと別れた。

今では親友である。何でも話せる親友。とても円満な関係を築いている。向こうも幸せそうでよかった。わたしのようなメンヘラと付き合っていた時点で不幸だったようなものだからなぁ。

 

そして、数週間後のいま、また新しい人ができた。これまたすごくいい人である。まあわたしの周りには友人含めいい人しかいなくて逆にすごいと思うけど。

数週間で乗りかえるなんて尻軽だなと思われるかもしれんがなんでも構わん。わたしの人生だからわたしの思うようにやる。

いまわたしは恋愛面では幸せである。それでいいと思う。

アイドルに救われた話

アイドルという人類が世の中に増えてきた気がする。わたしが追いかけているアイドルも大別して5、6グループにもなった。

そんなアイドルに、生かされた話をしよう。

 

CYNHNというグループ名の女性アイドルがいる。CYNHNと書いてすうぃーにーと読む。6人組で、みんな歌が死ぬほど上手でダンスも表現もクソうまい。

それぞれソロ曲もあるけれど、真髄は全員の合唱にあると思う。みんな歌声がまったく違うのに、6人になるととんでもないパワーを放つのだ。

百聞は一見に如かずだから、もしよければ聴いてみてほしい。

https://youtu.be/21VduO3ci9o

はりぼて

はりぼて

  • CYNHN
  • J-Pop
  • ¥250

 

さて、ここで自分の話を挟んでみよう。

わたしは死ぬ日というのを今年の2月21日に決めていた。日にちの理由は諸々あるが割愛する。

それを決めたのは自殺未遂をした7月から1、2ヶ月後のころ。人生に絶望したというよりは、呆然としたといったほうが正しいかもしれない。よくならない精神状態、薬に頼り切る日々、しんどすぎる部活、何も先の見えない状況、惰性で見るTwitter

死ぬことが逆説的に生きる希望であった。この日に死ねると考えることで、日々を頑張って生きられた。

このことはほとんど誰にも話さずにいた。絶対に決行しようと思っていた。

 

けれど。

ここで出てくるのが前述のCYNHNちゃんである。

ずっと見てはいたのだけれど、12月に初めて大阪に来ると知った。

見に行ってみようと思った。見に行くからには、きちんとお洒落をして出かけたいと思った。折しも髪をブリーチしたところだったから、ロリータ服がよく映えた。

 

なんばOCATからタワレコ心斎橋でおこなわれたリリースイベントは、わたしに衝撃を与えた。

初めてこんなに間近で、推しアイドルのパフォーマンスを見た。喋り声が可愛い子、細すぎるほど細い足で力強いダンスをしている子、メンバーみんなをヘアメイクしたりして可愛くするのに長けている子、直接喋るととっても優しい子、顔面のかわいさが強すぎる子、喋りが可愛すぎてネットとのギャップがすごい子。

涙が出た。かっこよかった。かわいかった。迫力のあるパフォーマンスだった。

握手会にも2ショットチェキにも参加した。顔の小ささに仰天した。

また行こう。そう思えた。

そのためには生きなければいけない。シングルが出るたびに写真を撮りたい。歌を聴きたい。

わたしは、また死ぬのをやめた。

 

きっと、人生はこれの繰り返しなのだろう。

死にたいと思っては、モチベーションを見つけ死ぬのをやめて、また死にたくなって、死ぬのをやめて。

わたしは推しに生かされている。少なくとも今は。

久しぶり

親に頼まれて『カササギ殺人事件』を購入した。

めちゃめちゃ面白そうで、親に渡す前に一度読んでみようと思ったけれど、1ページめで集中力と気力がもたなくなってやめてしまった。

漫画1冊がいまの限界だ。図書館戦争もテーマが重いので漫画でもかなり疲弊する。疲れる。しんどい。

生殺しにあっている気分だ。目の前に面白い作品があるのに読むことができない。

わたしがふつうに本を読めるようになるには何日かかるんだろう。

助けてくれ。

死ぬのをやめた話

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

――夏目漱石草枕

 

わたしは、2月の半ばまでには死のうと思っていた。決めていた。決心していた。

その理由は下記にあるんだけど、だから載せるんだけど、でも、やめた。

後輩が絶対に来年の定演に出てくださいね、練習に参加することを約束してくださいねってわたしに言った。それだけ。たったそれだけだけど、わたしは死ぬのをやめた。

用意していた遺書がこれです。わたしのしんどさの理由。

 

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
ひと足先にさようならです。

人間世界はいろいろな思惑に溢れていて、わたしには重すぎました。自分ひとりの人生も重すぎてひとりじゃ持ちきれないようなわたしが、人間の世で安穏と生きていくことは許されないのでした。ちゃんちゃん。

みんなが遠くへ行ってしまうことが寂しくて仕方がないのです。ここ(http://mmktkaij.hatenablog.com/entry/2017/11/05/105233)に書いたように、自分が変わっていないのに周りが変わっていくから、わたしだけが変わっていないから、わたしがどんどん置いていかれているように感じるのです。だからわたしも、どこか遠くへ行きたい。遠くへ。遠くへ。何も気にしなくてもいい、夢幻の場所へ。
わたしに死なないでほしいと思う気持ちは痛いほど感じます。わたしは思っているよりみんなに愛されていたようです。もちろん嫌いな人もいるでしょう。しかし、みんなが思っているよりわたしがいちばんわたしのことが嫌いです。反吐が出るほど嫌いです。そして、愛されれば愛されるほど、消えたくなってしまうのです。大事にされればされるほど、自分は分不相応で、愛されるような人間ではないことが身にしみてわかるのです。

 

――お願いだから消えさせてください。

わたしの身体はもうきっとボロボロです。咳止めの中には麻薬成分が入っていて、それは界隈ではまあまあ有名な話なのだけど、定演までは数日に1回はそれを1回に20錠とか飲んで生き延びていた。飲まないとやっていられないくらいには、人間界がしんどくなっていた。そして、麻薬には依存性がある。もうやめられないことがわかっていた。

まあ、だからってだけじゃない。死ぬことは既に、前回の自殺未遂より前には決めていた。いつ死のうかな、と考えながら生きていた、そんなふうには見えなかったかもしれないけど。

――だって、もうわたし頑張ったよ。頑張って生きたよ。性格の合わない親のもとで優等生として18年間過ごして、公立大に合格して、休学したけどそれは部活のためで、その部活の幹部も完遂した。お金も惜しみなく使ったし、自分で言うのもなんだけど広報をめちゃくちゃ頑張ったんだよ。ちゃんと引継ぎもしたよ。伝えたいこと全部引継ぎ資料に詰め込んで、もう伝え残したことないよ。

わたしは周りから見れば頭がいいのにサボり魔な悪い子だったかもしれないけど、地頭がいいのだっていいことばかりじゃなかったよ。サボらないと生きていけないくらい息が詰まって仕方がなかった。わたしにはまわりの優等生が、努力できている子たちがものすごく優れて見えた。実はわたしなんて大した存在じゃなかった、その思いを突きつけられるくらいに。

それでも、部活だけはやりたいと思った。高校の部活もなんにも貢献はできなかったけど必死で頑張った。大学も、先輩に釣られて入った部活、だけど入ったからにはちゃんとやり遂げようと思った。そして、5年に1回の大役がわたしたちの代に当たって、これはピンチでありチャンスだと思った。死のような重圧と引き換えに、わたしが何者かである証拠を残せるものだと。

必死で、本当に必死で頑張った。必死ってことば、死ぬまであるわ。マジで。

わたしの得意なことは何か、できることは何なのか、精一杯考えた。それで、高校のときの知識と、それから積み上げてきた少しのPCスキルを使えることに気がついた。高校のとき身につけた音楽知識となけなしの度胸を使って合奏に貢献できるようになった。PCスキル、それからネットスキルを使ってTwitterやサイト運営、周りとの情報交換、広告作りができるんじゃないかと思った。そして、それらすべてを実行した。楽しかった。

楽しかったけど、死ぬほどきつかった。もともと起立性調節障害や低血圧持ちで体力のないわたしははじめからあまり頑丈なほうではなくて、うつも併発してからはもっと脆弱になっていたから。

でも、わたしがやりたいと思ったから。これができるなら死んでも構わないと思ったから、やった。

こんなに頑張ったのに、まだわたしに頑張れって言うの? そんなの、そんなの意地悪すぎない? 酷すぎない? ならやるなって? やりたいことを書き出したブログを見てよ。太く短く生きたいって書いてあるでしょう。こういうことなんだよ。

生きてっていうなら、わたしの病気を治してよ。体じゅうにある精神にもある傷跡を、ぜんぶぜんぶ容認してよ。生きる場所を与えてよ。働く場所を与えてよ。もうそんなものも、そんなことする気も、ないくせに。あるのかもしれない、ある人もいることをわたしは知っている。けれど、自分で探させられることになりそうで、わがままだけど、わたしはもう努力のための努力なんてしたくない。頑張りたくない。楽になりたい。お願いシンデレラ。夢は夢で終われないんでしょ。現実に、わたしを地獄へ連れて行ってよ。天国になんか行けないことは知っている。そんないい子ちゃんじゃなかった。地獄でいい。現世が地獄みたいなものだったから慣れている。

とても長くなってしまったけれど、これがわたしの気持ちです。生きる人はえらい。それは断言できる。自分勝手だけど、わたしは無理だった。それだけ。

後追いとかはできればしないでほしい。わたしが影響を与えられる人がいたことが死後にわかるなんて、悲しすぎるから。

ネットの人への、そしてわたしの自伝的な遺書でした。わたしに今まで居場所を与えてくれたみなさん、本当にありがとう。そして、さようなら。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 

死にません。まだ。まだ死なない。生きてやる。

終わったという話

終わった。幹部が終わった。

ものすごく疲れた。しんどかった。

わたしはひそかに、この定演を伝説にしてやろうと思って色々やってきた。

おもに広報としての仕事。色々な演奏会にチラシ挟みに行ったり、ホールの周りに営業に行ったり、ホームページのデザインを刷新したり、新たな試みをたくさん考えたり。絶対に歴史に残るものにしてやろうと、そのためには何でもしてやろうと思って、実際にやってきた。

当日、客席を見に行っていた出演OBさんから、受付がきりきり舞いで回っていないほどお客さん来てるよ、と言われて。舞台袖に行ったとき、客席のざわめきがこれまでの2年より格段に大きくて。

そして、演奏も最後までやり切れたとき。

やってやったと思った。

きっとこの定演は伝説になる。願望かもしれないけれど、でも。信じたい。

 

今回の定演にははじめて父も来ていたようで。舞台から見えた客席の中ほどに座る父は、やはり老け込んで見えた。アンケート出してくれたのだろうか。どう思ったのだろうか。

もう会いたくはないけれど、感想を聞いてみたい気もする。

 

やりきって落ちるかなあと思ったんだけれど、いまのところ体の疲れのほうが勝っていて気持ちはそんなには落ちてない。今から落ちるのかもしれないけど。

ただただ、しんどかったなあと思うばかりである。必要以上には出さないように、しんどいとこぼさないようにやってきたつもりだから、今しんどかったが溢れている。口を開けばしんどかったなあ、引継ぎで1年を振り返ればますますしんどかったなあ、みたいな。過去形。

でも、やりきれてよかった。反省点はいろいろあるけど、悔いはない。本番は楽しかったし。

これからはまあ、ゆるゆるとやっていけたらなと思う。重荷をほとんど外して、軽くなった体で。次はクラブのクリスマスイベントで、その次はアイドルのリリイベだ。楽しみ。

3年連続ざっつおーる

あまりにもしんどいのでまたぞろ内科のお世話になった。


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点滴ックス

20分

 

ゆっくり休みたいけれど休み方がわからない。

寝ていても眠れた気はしない。

仕事をしなきゃならない。

 

キャパオーバーであるのかただ季節の変わり目のいつものやつなのか。いつものやつに一票。

自律神経ちゃんと自律してくれ。クソが。

毎日点滴を受けながら生活したい。それはもう入院であるな。

高知に引っ越してからの話

自分史その…何回目だったかな。とりあえず書くことがないので久々にわたしの半生について綴ってみよう。

 

母の地元である高知に夜逃げ同然で来たのが小学4年生の8月頭。そこから二十何日まで、母にとってはおそらく激動であっただろうけれど、わたしにとっては宙ぶらりんのふわふわした毎日が続いた。

今から思えば家を見に行ったりして完全に引っ越すとわかりそうなものだけど、その当時はまったくわからず、夏休み明けには大阪に帰るものだと思っていた。本当に。

あと、引っ越してから、高知の空気や水がめちゃくちゃ綺麗だったからだろう、アトピーがすっかり消えた。そこだけは感動した。

学校で「転校生」という人がよく来るけれど、自分がまさかそれになるとは思いもしなかった。ずっと祖母のうちにいて、のんきに遊んでいた。

それから家が決まって、なぜかそこに家具が運び込まれて、なぜか近所の人と挨拶をして、なぜか子ども会にも行って。ずっと、なぜか、だった。だって自分は大阪の小学校に通っているんだから。

母から「転校」という言葉を聞いた覚えはない。いつの間にか、そこの小学校に2学期から通うことになっていた。

一度だけ前の学校の担任の先生から電話がかかってきて、元気そうでよかった、と言われた。それから、仲良かった友達とは文通を続けた。でも少し時間はあいていた気がする。向こうは休みが明けたらわたしがいないものだから衝撃だったろう。きっと。

高知に引っ越して小学校に通いだしてから、わたしはなぜかちやほやされるようになった。それまではまったくなくて、クラスの中でもカースト下位のほうだったのに。たぶん、転校生というのが珍しかったのだと思う。「大阪弁喋って」とよく言われた。

4年生の終わりごろまでは同級生もわたしのことをよそ者、お客さんとして扱って、わたしも大阪のことが忘れられずに自分はここにいちゃいけないような思いがしていたけれど、5年生に上がったくらいからは自然に振る舞えるようになってきた。友達もできて、一緒に登下校をしたりするようになった。

小学校はだいたいそんな感じ。だんだん反抗的になってきて、体育などはずっと何もせず突っ立っていて先生にめちゃくちゃ怒られて心の中で舌を出したりしていた。

あ、そう、5年生のときにある男子がわたしのことを好きなんだという話を人づてで聞いて、うんうんへーそうなんだぁと思っていたらいつの間にか付き合っていることにされていたことがあった。それからわたしは好きになられることに慎重になっていった。

 

そんなかんじ。次は中学生で、吹奏楽と出会うころ。