人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

病気の話

こんなことを2ヶ月半前に書いたのだけれど、これが正体を表した。というか、うーん、結局治らなくて病名がグレードアップ()した、というべきかしら。

11月末の部活の定期演奏会の2週間ほど前から体調がかなり悪くて、布団から出るのも精一杯だった。そんな状態だったので普段の生活にも支障が出て、大学の授業にも行けず部活にも行けず。部活も定期演奏会はなんとか乗り切ったけれど、そのほかのこまごまとしたイベントはほとんど休まざるを得なかった。バイトも当然出られるはずもなく休みが増えて大分迷惑をかけた。助けてほしいと心から思った。すぐに救済が必要だった。大学のカウンセリングで号泣して、病院に行くことを勧められた。

メンタルクリニックには以前から通っていたのだけれど、そこは大学入学前の病院からの紹介状で引き継いだ情報だけで薬だけを出している感じで心象が悪くなっていて、予約も何週間か後だったのでちょうどいいやと病院を変えることにした。

12月の上旬。少し遠いけれど駅から近いからと選んだクリニックで20分ほど話をして、動けないほどの状況ならば自律神経失調症ではなくうつ病のほうがより近いだろう、と言われた。診断書を書いてもらって、やっと公的に休める、と肩の荷が下りた感じがした。

ここはよく話を聞いてくれて自立支援の医療機関変更の手続きの説明もしてくれたので当たりだと思った。本当は引っかかる(結局役所ではダメだと言われた)変更の日付をこうすれば医療費が返ってくるよ、というアドバイスもくれた。初診料やら診断書やら薬やらでATMに走ることになってかなり金銭的には痛手だったけれど、このタイミングで病院を変えたのはよかったと思っている。

というわけで、うつ病になりました。というか、発症時からおそらくそうだったのが診断名として露わになりました。もしかするとまた別の何かかもしれないんだけれどなんかもうわかりやすいレッテルに甘えたいのでこれでいくことにする。哀れむなら哀れめ! わたしはこれで生きていくんだ! たぶん。

刃物の話

えーかなりメンヘラ臭のする内容となりますのでお嫌いな方はどうぞブラウザバックを。ブラウザバックって今でも使うのだろうか。

 

 

皮膚を切ること、端的に言うところの自傷は何度かしたことがある。というか最近よくする。見えるところにはあまりしないけれど、太ももの傷跡は一目見てそれとわかると思う。

ずっとカッターでやってたんだけれど、このあいだ愛用している石鹸付きの剃刀が切れてしまったため急遽スーパーで食料と一緒に4枚刃の剃刀を買ってきたので、夜中のテンションで実験してみた。さっき。

えっとね、痛いです。カッターとか簡易ナイフとかサクサク切れるくせに全然痛くないし顔用剃刀もそんな切れなかったのにこれめっちゃひりひりする。

なんだこれ…痛い…えええ…

それが言いたかっただけです。痛いのやな人は4枚刃やめたほうがいいよという話でした。はいメンヘラ乙。おしまい。

幼少時代の話

唐突にわたしの自伝的なものを書いてみようかと思った。というかわたしがブログを開設した動機はわりとこれで、人生振り返れば何かわかるかなって思った。ので順を追って書いていこうと思う。わたしの思考を整理するためだけのもので他に何の役に立つわけでもないけど。

 

わたしは大阪の北河内の病院で生まれた。親は両親でコンビニを経営していた。家の近くのコンビニだったからよく連れて行かれて、一人娘として大人たちに可愛がられていた。経営は難しかったらしく特に父親は一晩中店に出ていることも多くて変則的な生活だったみたいだった。

3歳だったか、忘れたけれど、母に寝かしつけられて眠ったある夜、目が覚めると家に誰もいなかった。あっママが寝る前にパパに言ってた「タナオロシ」だ! と思ったのを覚えている。夜中(何時かはわからない)、当時住んでいた団地から徒歩5分のコンビニまで裸足でひとりで歩いた。店のドアを開けて開口一番「ママは!?」と鋭く叫んだらしい。「一番びっくりした」と母に後に言われた。それからは夜出て行く時は寝袋と一緒にわたしも連れて行かれるようになった。そりゃそうだよな危ないもんな。

保育園に入るまでずっと大人しか知らなかった。大人との会話しかしてこなかったから、保育園で同い年の子がたくさんいるのを見て驚いた。最初はやっぱり先生にしか懐かなかったみたいだけれど、そのうち友達もできて話せるようにもなっていったようだ。

その頃から外で遊ぶより本を読むのが好きな子だったのでずっと本を読んでいた。外に連れ出されたりおままごとに付き合わされたりもした。おままごとは何が楽しいのかさっぱりわからなくて無言でいたら、ひたすら赤ちゃんの役を割り当てられた。仲の良い上級生とサラサラな砂集めもよくしていたけれど、ふたりで集めた砂をひとつ上のその子が全部取っていくので背中に自分の砂を隠していたら見つかって全部取られた、という思い出がショックすぎてそれで全部上書きされた。

同じ園の友だちはその頃の子どもにふさわしく気まぐれに笑い気まぐれに泣き気まぐれに怒ってわたしを叩いたりするから、わたしはよく泣かされていた。きょうだいのいないわたしは喧嘩という概念を知らずひどく臆病で、ただ怒られるのと叩かれるのが怖かった。

 

その保育園は保育園なのに教育をしていて、火曜日は体育の日、水曜日は英語の日、木曜日は水泳の日だった。

体育の先生は豪快に笑うおっちゃん先生だった。前回りができないわたしの尻を叩いて無理やり回されたので怖かった。ただ、自由時間にみんなが遊んでいるときに担任の先生と雑談しているのを足元でずっと聞いていたとき、「上から読んでも下から読んでも同じ国名」という文言が出てきて、そのとき既に物覚えにハマっていたわたしはすぐに「アジア!」と答えた。おっちゃん先生は一瞬びっくりした顔をして、苦笑いしたあとものすごく褒めてくれた。嬉しかった。

英語の先生はほとんど覚えていない(他の先生が強烈すぎて)。園児のわたしはものすごく引っ込み思案で人前で声を出すことが苦手な子どもだったので、授業の最初に横に並んでアルファベットを1文字ずつ言っていかされることで毎週とても緊張していたことだけは印象にある。

木曜日はいちばん保育園に行きたくない日だった。家であらかじめ髪をしばられて、バスに乗せられて、近所の屋内プールに連れて行かれた。行くたびにプールの前でギャンギャン泣いてコーチを困らせた。2年(3年かもしれない)習ったけれど、習熟度を表すワッペンは他の子たちがどんどん進んでいくのに対してわたしは最初から3つめまでがやっとだった。この頃から運動音痴だった。

歌とお絵かき、それから工作は得意だった。店の裏ではいつもいらない紙やストローを使って絵を描いたり工作をしたりしていた。思いつく限りの童謡をつたなく歌っているわたしの声が録音されたカセットテープもある。

発表会というものもあってその練習は、劇はただ憂鬱だった。年中組のときやったピノキオの妖精役はどうしても声が出せなくて、大幅に台詞を削ってもらった。そんなだったのになぜか1年で大成長したらしく、年長組ではオズの魔法使いのトトという大役をした。6歳のわたしに何があったんだろう。

発表会では合奏と歌もして、これは年長のときしか覚えていないけれど、CARPENTERSのSingを歌って、シンコペーテッドクロックを合奏した。わたしはグロッケン(そのときは鉄琴って呼んでたかも)だった。これだけは楽しかったのに、何の媒体にも残っていない。わたしの変な歌の録音やら嫌々撮った写真はたくさんあるくせに。

保育園は小規模だったし先生も好きで、おおむね無邪気に楽しんでいた。制服と鞄がかわいくてお気に入りだった。この頃がいちばん人生楽しかったかな。園児だし当たり前かな。

 

ひとつ思い出すと芋づる式にどんどん出てきて長くなってしまった。こんなに保育園の記憶があるとは思っていなかったのでおもしろい。こんな感じでなんの需要もない記憶の羅列を続けていこうと思う。

 

なんの需要があるかわからないのでいちおう次→小学生時代の話 - 人影のない冷い椅子は

母の話

大学の部活が一区切りついた。もう代替わり。疲れた。

部活を見にくるので母親が来ていて家事手伝いを頼んでいた。ひとり暮らしのワンルームに1週間人を泊めるのはひとりの時間が必要なわたしにとって大分つらいけれど、体調が思わしくなくて家事どころじゃなかったので部活に専念するためにも家のことはやってもらった。

その1週間の半ばくらいで、母がうちにある本をもらえないかと言ってきた。少し前に買っていた、どこにでも売っているわけではないマイナーな本で、それを見た知り合いがいたく気に入ったらしい。わたしは承諾した。うちでしか買えなかったのでそれがいちばん良い選択だとわかっていたし特に置いておきたい本でもなかった。異論はなかった。

でも、それでひとつなんとなくわかったことがある。今までわたしは親に対してこうやって生きてきたんだ。否定をせずに、反抗をせずに生きてきたんだ。喧嘩なんて一度もしたことがない。親はわたしを何でも知っていて頭がいいと褒めてくれたし、わたしはそれを自慢した。その関係には不満なんてない。でもそれとは別に抑圧されていると自分には感じられた。失礼なことを言っているかもしれない。それでもわたしはずっと親が怖かった。親が絶対だと、物心ついたときから思っていた。反抗なんてしようものならどう怒らせるかわからないといつも片隅で考えていた。しんどかった。ひとり暮らしができて心底ほっとした。

わたしの性格と親のそれとの違いの問題であって親にはなんの罪もないからどこにも言いようがなかった。でも最近やっと親が他人だと思えるようになってきて、自分とは違う人格を持った遠い人だと認識できはじめた。それはわたしがちゃんと、母の娘としてどこか怯えながらではなくひとりの人として親に文句を言うことができるようになるきざしなんじゃないかなあと思う。

感謝はしている。たぶん。そうしないと人非人だと思われそうだから。でも、血が繋がっているだけのただの他人なんだ。わたしにとっては仲の良い友達や先輩やフォロワーさんのほうがはるかに心の距離が近い存在であるし、感謝する度合いも別に親だからといって特別にする必要はないのだ。

理屈ではわかっているんだけれど感情はまだ世間や本人を気にして罪悪感を覚えざるを得ない。これからは気にしない、自分は自分、他人は他人を心がけたい。のんびり自分の行きたい方向に持っていけばいいんだとおもう。

(人から見て)人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。なんつって。

体調が悪い話

しんどい。とにかくしんどい。苦しい。何もかもが苦しい。起き上がれない。そんな状態がきのうから続いている。きのうの夜はバイト、今日はなにより楽しみな部活という予定があったのにどうしても着替えられない、部屋から出られない。バイトは無理を言って休ませてもらったし部活もどうしても行きたかったはずなのにいま休みのLINEを入れてしまった。いろいろな人に迷惑をかけて申し訳無さと罪悪感に押しつぶされそうなので眠剤で誤魔化してこれを書いている。

これでもわたしの中の最悪底辺ではないのだ。ほんとうにひどい時は体の上にもう一人のわたしくらいの重さの何かが乗っけられていて、比喩でもなんでもなく這って動くことしかできない。うさぎ(書いてなかったけれどうちには灰色のうさぎがいる)にごはんをあげなきゃ、その一心でケージの前まで行ってごはんを入れて、ベッドに戻る。起き抜けで口の中が気持ち悪いけれど、洗面所まで行くことすらできない。それがわたしの最底辺。

いまはぎりぎり起き上がって家の中は動き回れるけれど、やっぱり横になっていないと体が重くてどうにもならないし何をする気にもなれない。本を開く気力も大好きなゲームを起動する気力もない。

いちおう自律神経失調症という病名はついた(この間主治医に聞いたら一応ね、と教えてくれた)けれどそれですぐ完治するわけないしほぼ毎週こんなんじゃ絶対に生きていけないし生きる希望だって湧いてこないのは自明のことで。大学を卒業するために受けたのに卒業できないとか、どうしようねみたいなね。ちょっと文章よくわからなくなってきた。

ただつらいつらいって言いたかっただけなので終わります。明日は家から出られますように。

5年後の話

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

なんかもらえるかもしれないと聞いたらやってしまう貧乏学生のサガ。
5年後…今は19歳の大学1回生だから、順調に進めたならば、に、さん、よん…卒業できたら就職かな院かな、まだ全然展望なんか見えていないけれど、24歳であることは確かだな。
そもそも、生きてるのかな? わたしの人生設計の中のひとつで卒業したら死ぬ、っていうのがある。
そしたらわたしは5年後には存在すらしてないことになる。
まず24歳のわたしなんて想像もつかない。わたしの中にはまだ14歳のわたしとか10歳のわたしとかが見え隠れしていてぐちゃぐちゃしているから何してるのかなほんと。
不慮の事故で死んじゃってればいいな。
いまのわたしにはたくさんの仲間や気にかけてくれる人がいて、今がいちばん幸せだと確信を持って言えるから、だからこそ、惜しまれるうちに、大切だと思われているうちに、最高の死に方ができたらな。
そういうわけで、24歳のわたし、まだ生きてたらよく頑張ってますね、まわりの環境がどうであれ死ぬことは悪いことじゃないし生きることももちろん悪いことじゃないし、まあ大好きな人たちのためにせいぜいがんばればいいよ。生きる希望が持ててたらいいね。

2016/11/15 五年前のわたしより

才能とファンか否かの話

部活の同期に泣きついてルルアタックNXなるものを買ってきてもらってなんとか翌朝には風邪の症状はおさまりました。小康状態。

 

先日、ある作家さんのトークイベントに行ってきました。名前出してもいいのかな、道尾秀介先生。

大学の生協組合主催の小さめのイベント。タダでお話が聴けてサインがもらえるなんて、って最高に楽しみにしていた。実質とっても有意義なお話が聴けた。執筆活動ではない音楽だったりそういう他の趣味でさえも書く小説とひとつながりで、だからこそ今まで執筆を続けていられる、と。小説と他のことが完全に隔てられていたなら小説は仕事でしかなくなってしまうし、できたものもおもしろくなくなってしまう、と。この「おもしろくない」というフレーズは今回道尾さんの口からよく聞いた。「今回は違った雰囲気のものを創りたいんだけどいつもの作風と違うと思われたら、って気にしだして、お金だとか、売れるかだとか、評判だとかを意識するようになった作品はおもしろくないよね」、だとか。他の文脈は忘れたけれどたくさん使っていらっしゃった印象的なことば。

サインもいただいたし、サインの横の名前をハンドルネームにしていただくことも快く了承してくださって、お話までしてくださってうちに宝物がひとつ増えた。

それでも帰途気持ちがざわついていたのは、たぶん2時間かけて帰らなければいけなかったからだけじゃない。

学生からの質疑応答というかたちで進んだこのイベントで、周りの人がどれだけ『向日葵の咲かない夏』が好きか、『カササギたちの四季』が好きか、道尾作品が好きか、が否が応でも伝わってきた。わたしは道尾作品が好きだけど、その伝え方がわからない。きっと同じくらい思い入れがあるのに質疑応答に手を挙げる勇気もそんな中身の詰まった質問もない。ファンレターを書いてもおそらくふつうの、ごくごくありふれたテンプレートにすぎないものになってしまう。それは果たしてファン、マニアと呼べるのだろうか。言い換えれば、そのことはわたし自身に自分をマニアだと呼ばしめることができないのではないか。わたしにもっと文章力、発想力と考えを練る力があれば何かを先生の中に残せたかもしれないのに。そうすればわたしは先生のファン、マニア、クラスタであると自信を持って言うことができるのに。これは確かに手を挙げて質問をぶつけた人への嫉妬であった。

それから、先生についてトークを通じて痛感したこともある。その才能のこと。先生はありあまるほどの才能を持っていて、それを活用できるという確固たる自信を持っている。もし似たものを誰か他のクリエイターがつくっていても、それを超えていく、個性によって道尾作品だと正面切って言えるものを書くことができるという自信を持っている。わたしは一度小説を書こうとしてとんでもない挫折をして、自分の中の才能なんてものには関心も期待もなくしてしまった。この差を、もう刺さって刺さって痛いほど感じて、終わる頃には打ちのめされてしまった。

そんなわけで、このたび得たものは『プロムナード』の見返しに直筆で書かれたわたし宛の達筆なサインと「おもしろくない」ものの定義のひとつ、それから先生のシュッとした雰囲気とユーモアの含まれた喋りの思い出。失ったものはファン参加型イベントへの意欲。同じものが好きなファンを目にしたくないという意見は聞くことがあるけれど、それはこういう理由も含まれているのかなあなどと思ったりもした。

下書きを重ねているうちに何がいちばん書きたかったのか忘れてしまった。先生の声も思い出せない。尻切れとんぼ感はあるけれどこれで終わりにする。

あ、道尾作品は素晴らしいのでこれからも好きで居続けます。どの作品も色が違っておもしろいよ。