人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

すきなたべものの話

前回のブログ記事が若干重かった(いつもだけど)ので、今回はアホいおはなし。

わたしはわりと味覚がおこちゃまなので、単純な味が好きである。ハムをそのまま食べたり、味付けのりをぱりぱりぱりぱり貪ったり、うさぎにあげるのと同じレタスにマヨネーズをかけて素手で食べたりする。調理とかめんどくさいので別にそのままでいいじゃん、派である。こじゃれたハーブとか苦手。薄味サイコー。

おこちゃまゆえスパイスもダメ。近所のスープカレー屋さんに行ったらほんとにお子様用の辛さしか食べられなかった。びっくり。わさびもダメ。知らずに食べて涙目、あるある。あと、ししとう。怖いよねーあれ。天然のロシアンルーレット。高校の修学旅行で、テーブルでわたしだけが当たってひとり火を吹きながら生理的な涙を流す、そんな滑稽な役を不本意ながら演じたこともあった。というわけで薄味サイコー。あっでも最近はとうがらしのお菓子だったら辛くても大丈夫になってきたよ。

二番目に、味覚がショボくもあるので、違いがわからない。ウスターソースも中濃ソースもオイスターソースもとんかつソースも何が何やらである。ぜんぶお好みソースで済ませている。 「ひと粒1000円のチョコレートです」とかいってチロルチョコ出されても、たぶんわからない。本当に1000円のチョコレートだったとしてもわからないであろう。

さらに三番目に、安いもので育ってきたのでチープなものを好む傾向にある。お寿司では生の甘えびよりふつうのエビのほうが好きだし、トロは脂っぽくて苦手(関係ないけど同じく脂っぽいのでサーモンは食べられない)。スーパーでは2割引き、半額にすぐに飛びつく。スマホの電卓アプリ片手に、ひとつあたりいくらなのか計算して比べてからお菓子の詰め合わせを買う。ハーゲンダッツってスーパーカップやMOWと何が違うの??

まあこんな感じなので、食にはあまりこだわりがない。もし会社員になって上司にお高いお店に連れて行ってもらっても、「やっぱり先輩の行くお店は格が違いますね〜!」とか口先だけ繕いながら、ファミレスがよかったなーサイゼのミラノ風ドリア食べてえーとか思っているのではないかしらん。

あ、こんだけ言っときながらこだわりを申し上げますと、わたしは生や半熟の卵が食べられない。固ゆで(変換できなくて激おこ)オンリー。すき焼きはそのまんま。土佐弁で「好きだから」は「好きやき」です。

もうひとつのこだわりは、朝はパン。パンパパン。お察しですかはい眠いです。トーストでもコンビニでもスーパーでもなんでもいいけど朝は小麦。wheat。あー別に米粉パンでもいいけど。

あとはチーズ教の信者です。チーズ入れときゃなんとかなると思ってる。

なので、もしこれを読んだ人で何かご飯を食べさせてやろう!とかいう人がいたらチープなコンビニパンでも与えておけば満足するのでどうかよろしくお願いします。ていうか食べ物よりほかの日用品くれ。助けてくれお金がないんだ。あっほしい物リスト置いとこ。 https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/8GRU4FL14PS9/ref=cm_sw_r_cp_an_wl_o_zzDAzbW3QS692 乞食も辞さないスタイル

これ書いてて思ったんだけど、はてなブログって2回改行しないと改行とみなされないの?

セクシャリティの話

わたしは前述のとおり精神疾患を患っていて、休み休み日々を生きなければならない、いうなれば後天的なマイノリティである。

それとは別に、セクシャリティの面でマイノリティでもある。

アセクシャル。ということばがどのくらい世間に知られているのかわからないのでひとことで言いあらわすと、「性的欲求が他人に向かないひと」ということ。(日本ではノンセクシャル、Ace、とよばれたりもする)

これは性的欲求のみの限定で、恋愛感情はある。と思う。この恋愛感情については、〜ロマンティック、と称される。わたしは、パンロマンティック(すべての性に恋愛的感情を抱く)、かつデミロマンティック(かなり親しい人でないと恋愛ということばすら浮かばない)である、と自認している。セクシャリティは揺れ動くもので、わたしも変わったしこれからも変わるかもしれないので一生というわけではないけれど、今のわたしはこうである。(まあ難しく書いたけど「好きになった人が好き、でも超仲良い人じゃないとムリ」ちゅうこっちゃね(小声))

だから何、といわれるといや別に、自己紹介、としか言えないんだけど、書いてみた。こんな人もいる。

本来、こんなに仰々しく名前をつけて自己紹介することもおかしいのだけれど。

昨今のセクシャルマイノリティが注目されつつある(とわたしは思っている)この社会で、LでもGでもBでもTでもないセクシャリティをもつわたしたちはまだ出る杭にすらなっていない気がする。そして、一般の恋愛通念に違和感を持つ人はわたしの知る以上にたくさんいると思っている。そんなもやもやを打ち消して異性恋愛に励んでいる人も。わたしだって、ネット環境がなかったら気のせい、性格のせいにして無理やりしたくもない恋愛をしていたと思う。

むずかしいよねえ、とは常々思っているんだけど、日々を過ごしていてやりづらいなと思ったそのときに自分から声をあげ続けなければいけないんだろうな。きっと今のわたしたちは(性に限らず)多様化が進むちょうどその変わり目にいて、だからその今にみんなして働きかけないといけないんだろう。他人の気持ちや考えなんて誰もわからないものね。

わたしは、わたしたちは、紛れもなく存在する。この存在をまずは知らしめることから始めなければならない。それで、ゆくゆくは「ご結婚は?」という質問に気負うことなくいたって自然に「あーわたしAセクなので」「なるほど」という受け答えが繋がるようになればいいな、と思う。

転換期の話・そして父の話

更新がめんどくさかったので3月で止まっていた。

 

うにゃうにゃ自分史シリーズその3。

(需要があるかはわからないがその1がこれ→幼少時代の話 - 人影のない冷い椅子はで前回がコレ→小学生時代の話 - 人影のない冷い椅子は

 

大阪でぼーっと過ごし習字とピアノを習い、初めてのピアノの発表会を数週間後に控えた小学校4年生の夏休みのこと。

親子3人で過ごしていた家庭に何か異変が起きつつあるのはなんとなく察していた。もともと忙しかった父親の帰りがますます遅くなって、後退していた生え際がさらに目立つようになり、背中が痛い痛いとうめきながら母に湿布を貼ってもらっている姿を見ることが増え、その母も父を手伝いに店に出て一晩中帰ってこないことが増えた。

ここからは記憶が断続的で順番が間違っているかもしれない。あっという間の出来事だったから。

まずひとつの記憶は、夜わたしがふと目を覚ますと枕元に誰かの気配がしたこと。見てみるとそれは父の弟、つまりわたしの叔父で、わたしのほうを向いて正座をして、声を殺して泣いていた。いつも遊んでくれる楽しい叔父が、というか大人が泣くことなんてないと思っていたから、わたしはただただ混乱して、寝ぼけた振りをして二度寝をした。叔父は泣きながらそんなわたしを笑った。

それから、そこからそんなに離れていない日の朝。怒鳴り声で目が覚めた。それも同じ叔父で、電話越しに父に対して怒鳴っているようだった。「何しとんじゃ」とか「謝って済むことか」とか、そんなことが聞こえた気がする。目を覚ましたわたしに気づいた母はそっとわたしを部屋に戻した。それでもなお聞こえてくる止まらない涙混じりの怒鳴り声に、わたしは何も考えられずに戸惑っていた。

最後は、とても静かなダイニング。団地から新しくなったマンションに住みはじめたばかりでまだあまり物のない12畳ほどのフローリングに置かれたテーブルに親子3人が座って、父は悲しんでいるのか何を思っているのかよくわからない顔で黙っていて、母だけが話した。「パパは病気でね」「別々になることになったから」「夏休み中は高知に行こうね」と話す母の目も赤くて、大人が泣くのを初めてこんなに見て、わたしはなんだろう、いたたまれない思いに囚われた。

そのときから、怒鳴るだけじゃなく親の代が泣くのを見るのがとても苦手だ。 

別々になると決まってからの引っ越し作業は淡々と、そして着々と進んだ。母は最低限のものだけを実家に送り、わたしはほとんどの絵本は置きっぱなしにしていた。まだ、わたしは帰ってこれると思っていた。「夏休み中は高知で」ということだけがわたし本人に関することだったので、幼いわたしはそんな気休めだけを信じて最低限のものを持って高知に飛んだ。

それまでにもよく高知の祖母の家(つまり母の実家)には行っていたので、その一環だなと思っていた。親が家を探し始めたのでついて行った。夏休みひと月住むのに家を探すのかあと思った。家が決まった。いろいろな荷物が運び込まれ、まさにここがこれから住む場所かのように設えられた。地元の子ども会に連れて行かれた。運動会に参加した。近所の子と仲良くなった。8月末、2学期が迫っていた。「夏休みだけじゃないん?」わたしは母に訊いた。「うーん、まあ、帰らないよ」母は濁そうとして濁せない感じで答えた。帰らないのかあ、と思った。それだけだった。

「パパはどうしたの?」とも、その少し後に訊いた。「肝臓が悪くて山口県の病院にいる」と返ってきた。あとから(これの数年後)わかったんだけれども、少なくとも病院というのは嘘だった。父がその間どこで何をしていたのか、そもそも父に何があったのか、わたしは想像はつけどもまったく今でも知らない。今は働いて、わたしの近況も知りたがっているらしくたまに写真を母伝てに送ったりする。

パパ、つまりわたしの父親についてはこれがすべて。(このあと成人式のあとに母から詳しく聞いた。→父の話 - 人影のない冷い椅子は

次はわたしの引っ越したあとの小学4年生の2学期から始める。

決めたこと

ここに宣言する。

大学を休学することにした。

第一にどう考えてもわたしには勉学と部活を両立させることができないこと。生活ができないほど潰れる前にはじめてしまった(こう書くとなんだか後悔しているみたいだけど最高の出会いをしたと思っている)から避けられないことではあった。「同期と一緒に卒業する」「同期と一緒に部活を最後までやる」このふたつを天秤にかけて、今しかできない部活、すなわち後者を先に完遂させたいと思った。

第二に、こんなひどい状態で勉強しても単位が取れなくて授業料の無駄だし、もし取れたとしても付け焼き刃になってしまうこと。やりたいことは徹底的に追究したいし集中できない状態で勉強したくない。

このふたつの理由からわたし自身で決めたことである。

Twitterで散々愚痴ったとおり母親とは揉めたけれど、わたしは生来わりと頑固者なので強引に通した。

きっとこれから周りには変な目で見られることもあるだろうし、逆に接し方に困ることも腫れ物のように扱われることもあるだろう。そうやって気を遣わせてしまう可能性があることには申し訳なく思う。

でも。人のことを気にしてやりたいことができないのはもう嫌だ。思ったことが言えないのは嫌だ。日陰者でいるのはウェイの集団を前にしたときだけでじゅうぶんだ。わたしはわたしの決めた道を歩く。助言を聞かなかったせいで高い山を登る羽目になったとしても、人の言うとおりにするよりマシだと思える。そっちに進んでいたら崖を転がり落ちていたかもしれないのだから。

それから、しんどさを抱えた後輩がもしこれから出てきたとしたらこんなやり方もあるよと言える・言ってもらえるような草分け的、ロールモデル的存在になれたら、という考えもある。わたしがロールモデルなんておこがましいかもしれないけれど、そんな立派なものじゃなくてもこんなんでも大学生やっていけたんだよって示すことができたらそれを見た人はきっと楽だ。たぶん。大学の制度なんてそう簡単に変えられないから、まずはわたしが魁になる。どんなに小さくても、その灯りになりたい。逃げだけど逃げじゃない。立派な生存戦略だ。なんとでも言えばいい、わたしは生きかたも死にかたも自分で決める。

後悔はしない。

2017.03.25

小学生時代の話

自分語り再開。ちなみに前回はこれ→幼少時代の話 - 人影のない冷い椅子は

 

小学校に入ったわたし…のことは、正直あまり覚えていない。毎日をぼんやりと過ごしていたからだろう。学校に行って、チューリップが植えられた花壇の横を通って教室に行って、1日そこで過ごして、誰もいない(3時とか4時なので)家に帰って、ランドセルをダイニングに投げ出したままフローリングの床に座って再放送のナースのお仕事牡丹と薔薇はぐれ刑事純情派を見ていた。ぼんやりと。

土曜日はふしぎ星のふたご姫、日曜日はプリキュアを観て親のコンビニに行った。従業員の子どもがわたしと同い年でいつも遊んでいた。その子は少し知恵足らずではあったけれど天真爛漫な子だった。くだらないことでガハハハと一緒に笑うわたしを親は「あの子に合わせなくていい」と言ったけれど、あの子を下に見ていることが見え透いていて(当時わたしも勉強のできないその子をそう思っていたけれど)むしろ反発心でその子に合わせ続けた。

学校では持ち前の人見知りを発揮してなかなか友達を作れずにいたことを覚えている。一度友達と遊ぼう、と待ち合わせをしたことがあるのだけれど、いつまで待っても相手は待ち合わせ場所に来ずそのまま帰った。3歳のころからひどいアトピーに悩まされていたので引っ込み思案なのはその劣等感もあったのだと思う。薬の記憶が強くて今でも顔に何か塗るのはあまり好きではない。何年生のときだったか、転校してきた男の子がいた。それまでクラスメイトたちはわたしの顔や腕のアトピー性皮膚炎に触れないでいてくれたんだけれど、そやつは思ったことを即座に口に出す子で(特別学級にときどき行っていたのでおそらく少し発達に難があったのだと思う)無遠慮にわたしを「ブツブツ」と呼んだ。そのときどう思ったのかはもう覚えていない。ただ給食当番がいつもペアなのが嫌で嫌で仕方がなかった。

1年生から毛筆と硬筆を習いはじめた。たぶん親の意向だったんだと思う。たしかに字が綺麗だとなんとなく印象がいいし褒められると嬉しい。まあそこでも引っ込み思案なので「先生できました」が言えず、見回りに来るまで書き直し続けていたのだけれども。

あとは、そうだなあ、保育園からの友達とその友達の3人でなぜか学校のイベントの野外ステージに出た。大塚愛の『さくらんぼ』。2年生までは出たんだけど、3年生になってメンバーが増えると「ああわたしはここにいてはいけないな」と本能的に察してそのグループから抜けた。友達に引っ張られて一瞬だけ頭を突っ込んだスクールカースト上位の世界だった。

それから、1年生のおわりに学校に人が侵入して先生を殺した。殺人事件だ。その時間は6時間目の時間帯で低学年はもう帰っていて、わたしはやけにうるさいヘリコプターを気にしていた。あとで3人の先生が刺されてひとりが亡くなった事件があったことを知った。担任の先生も刺されていた。まったく実感なんてなくて、そうなのかあ、としか思わなかった。この微妙な倫理観の欠如はいまもわたしの中にあって、欠如があるっておかしいのか、まああって、それはたびたびわたしを悩ませたりもする。ちなみにその先生は幸い数ヶ月後に復帰した。

 

3年生になったときの転校生の女の子がわたしの救世主(そう言ってはちょっと大げさかもしれない)だった。なんだろう、波長が合ったのだと思う。

わたしの記憶では転校してきてかなりすぐに仲良くなった覚えがある。いつもリコーダーを吹いて遊んでいたし冬のマラソンも一緒に走った。家にもお邪魔したこともある。その子はピアノを習っていて、アラベスクを弾いて聴かせてくれた。

その子の影響かどうかは覚えていないけれど、3年生の途中からピアノを習いはじめた。習字と同じように引っ込み思案ながらわりと楽しく通っていたように思う。

そんな、まあまあ平穏(わたしなりに)な大阪での生活は突然終わった。ほんとうに突然だった。次(お節介なリンク→転換期の話・そして父の話 - 人影のない冷い椅子は)でそのことを主観的に綴ろうとおもう。

病気の話

こんなことを2ヶ月半前に書いたのだけれど、これが正体を表した。というか、うーん、結局治らなくて病名がグレードアップ()した、というべきかしら。

11月末の部活の定期演奏会の2週間ほど前から体調がかなり悪くて、布団から出るのも精一杯だった。そんな状態だったので普段の生活にも支障が出て、大学の授業にも行けず部活にも行けず。部活も定期演奏会はなんとか乗り切ったけれど、そのほかのこまごまとしたイベントはほとんど休まざるを得なかった。バイトも当然出られるはずもなく休みが増えて大分迷惑をかけた。助けてほしいと心から思った。すぐに救済が必要だった。大学のカウンセリングで号泣して、病院に行くことを勧められた。

メンタルクリニックには以前から通っていたのだけれど、そこは大学入学前の病院からの紹介状で引き継いだ情報だけで薬だけを出している感じで心象が悪くなっていて、予約も何週間か後だったのでちょうどいいやと病院を変えることにした。

12月の上旬。少し遠いけれど駅から近いからと選んだクリニックで20分ほど話をして、動けないほどの状況ならば自律神経失調症ではなくうつ病のほうがより近いだろう、と言われた。診断書を書いてもらって、やっと公的に休める、と肩の荷が下りた感じがした。

ここはよく話を聞いてくれて自立支援の医療機関変更の手続きの説明もしてくれたので当たりだと思った。本当は引っかかる(結局役所ではダメだと言われた)変更の日付をこうすれば医療費が返ってくるよ、というアドバイスもくれた。初診料やら診断書やら薬やらでATMに走ることになってかなり金銭的には痛手だったけれど、このタイミングで病院を変えたのはよかったと思っている。

というわけで、うつ病になりました。というか、発症時からおそらくそうだったのが診断名として露わになりました。もしかするとまた別の何かかもしれないんだけれどなんかもうわかりやすいレッテルに甘えたいのでこれでいくことにする。哀れむなら哀れめ! わたしはこれで生きていくんだ! たぶん。

刃物の話

えーかなりメンヘラ臭のする内容となりますのでお嫌いな方はどうぞブラウザバックを。ブラウザバックって今でも使うのだろうか。

 

 

皮膚を切ること、端的に言うところの自傷は何度かしたことがある。というか最近よくする。見えるところにはあまりしないけれど、太ももの傷跡は一目見てそれとわかると思う。

ずっとカッターでやってたんだけれど、このあいだ愛用している石鹸付きの剃刀が切れてしまったため急遽スーパーで食料と一緒に4枚刃の剃刀を買ってきたので、夜中のテンションで実験してみた。さっき。

えっとね、痛いです。カッターとか簡易ナイフとかサクサク切れるくせに全然痛くないし顔用剃刀もそんな切れなかったのにこれめっちゃひりひりする。

なんだこれ…痛い…えええ…

それが言いたかっただけです。痛いのやな人は4枚刃やめたほうがいいよという話でした。はいメンヘラ乙。おしまい。