人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

代替わりをした話

うちのクラブの定期演奏会が終わり、代替わりをした。

わたしたちの代が幹部となる。このあいだ大学に入った気がするのに、時の流れというものは早い。

先輩の期待は重くのしかかり、自分への自信のなさはますます自分を追い詰める。うつを免罪符にするつもりなんてさらさらないけれど、どうなるのか、どうなってしまうのかはなはだ不安である。わたしは幹部代を生き残れるのだろうか。

もちろん楽しいこともたくさんある。楽器を習うことになってもっと高みを目指せる。合奏に自分の好きなように口を出せる。たくさんの楽しい演奏ができる。好きなように宣伝ができる。

けれど、やっぱりこれからの運営側に立つ1年を思うたび心臓が握り潰されそうになる。助けてくれと、もういやだと、叫びだしたくなる。

わたしはクラブを運営したいわけではない。ただ楽しく楽器を弾いていたい。広報になったのも気楽に宣伝ができると思ったからだ。

でも、運営に関わらないわけにもいかないのだ。自分が楽しいだけじゃ、駄目なのだ。わたしたちの努力のもとで後輩たちの「楽しい」がある。なければならない。わたしたちは部の存続のために必死にならなければならない。

腹は決まっているつもりだけれど、まだまだやれることはある。もう一度覚悟をしなければならないのだろう。

はじめて救急車で運ばれた話

11月19日。

その日はクラブの定演リハの日だった。

午前中に通しリハを終えて、パートでごはんに行って、合奏場に帰ると1時。そこからパート練習をして手直しの合奏3時間。考えてみればまあまあハードだった。

2時半ごろ、手直し合奏の1回目の途中から手が震え出した。2回目はとりあえず休もうと合奏場の後ろでうずくまって耐えた。

2回目が終わる頃には体に力が入らず、声もほとんど出なくなっていた。同期が2度ほど声をかけてくれたが、蚊の鳴くような声しか出ずコミュニケーションを諦めた。

1日のスケジュールが終わっても屍と化していた。夕方やっと少しずつ体が動くようになってきて、起き上がり、水と薬を飲み、あたりを見回す、というそれぞれの行為を10分くらいずつかけて行った。

帰らなければ、と思った。早く帰れとその場のすべての人から言われているような気がした。側にあった荷物を掴んで合奏場を出た。

楽器置き場に行くより楽器を持って帰ったほうが消費エネルギーが少ないと咄嗟に思った。楽器置き場に向かう道に人がたくさんいたこともそう思った理由のひとつだった。約700m歩けば家なので、行けないはずはなかった。

だが、大学をちょうど横切るかたちになる道筋の3分の1ほどで、体力と気力が同時に限界を知らせた。もしかするとどちらかが先に尽きていて、残りのほうでなんとかもっていたのかもしれない。

楽器と荷物を置いて、地面に座って、同期であるパートナーにLINEで助けを求めた。既に泣いていた。体の中で鳴らされる警鐘と情けなさと不安でパニックになっていた。

パートナーが駆けつけてくれるまでの10分ほどが死ぬほど長く感じた。手足が氷よりも冷たいのではないかと思うほど冷えていった。矛盾するようだがもう誰でもいいから助けてくれ、楽にしてくれ、という気持ちだった。

自転車で彼が来てくれたとわかった瞬間に最後の砦が瓦解した。謝りながら泣きついたような気がする。

そこから先はあまり覚えていない。過呼吸を起こして泣きじゃくって謝り続けて、最終的に救急車を呼ばれた。誰か他の人も来ていたようだけれど誰かはわからなかった。

救急車の中ではずっと天井を見ていた。青い布か袋みたいなものが天井棚に置いてあった。なんとなく脈を測られているなあと感じていた。

病院に運ばれる頃には落ち着いていたけれど、念のためとベッドに寝かされて楽になったら出てこいと言われた。パートナーが来てくれた。良かったと泣いてくれた。申し訳ないと感じた。先輩も来てくださった。

タクシーで帰ることになった。お金を払った。痛い出費だった。先輩が慰めてくださった。聞けば、自転車で学校から遠い駅まで行き、そこから病院最寄りまで電車で来てそこから徒歩で病院までいらしたらしい。なんとまあ恵まれた人間関係を持ったものだと思う。

帰った。すぐ寝てしまった。パートナーが朝まで一緒にいてくれた。

後日、自転車で計算し直された医療費を払い戻されに行くのと母親から電話がかかってきたのが面倒臭かったので、今度もし救急車を呼ばれることがあろうとも病院まで連れて行ってもらうのはやめようと思った。おしまい。

まあ救急車なんかお世話にならないほうがもちろんいいんだけど。過呼吸の起こしかたが高校時代を思い起こさせて個人的にはつらいものがあった。というか家の中で起こしたとはいえここまで酷くてもほっといた母っていったい。

ともあれ、無事に運ばれて(?)無事に戻ってきました。ご報告。おしまい。

 

ちなみにこれを書いているこの時期はもう定演は終わっていて別のことに精一杯だったりする。またそのことについても書こうかな。それではそんな感じで。

らいねんのわたしへ

1年後の秋頃のわたしへ。

 

今日わたしはあまりの体調不良に内科に行ってきました。大学生活2年目にして2回目です。しかも同じ時期です。

 

甲状腺の病気の可能性を排除するために採血されました。以前採血でひっくり返ったことがある(医者の言葉そのまんま)ので寝て採血されました。でもたぶん異常はないです。ただの自律神経の失調です。

 

来年のわたしへ同じことを繰り返さないよう忠告します。内科には行くな。2年で8000円無駄にした。精神科の薬で乗り切れ。

1年が経とうとしているよ、という話

 

 これを書いてからもうすぐ1年が経とうとしている。1回生だったわたしには後輩ができ、部活の半分を休む幽霊部員の2回生になりつつある。

 

後輩はものすごく頼りになり、まじめながらおもしろくわたしにも気を遣ってくれる、とてもいい子である。先輩方も変わらずわたしをあたたかく見守ってくださる。

 

いつのまにこんな2回生に成り果ててしまったのだろう。

 

わたしは去年から何も変わっていない。変わっていないのに周りがどんどん変わっていくからわたしが変わり果ててしまったみたいに見えるのだ。初音ミクのkoma'nさんのBadByeってご存知?

 

昔からずっとそうだった。

 

あなたは優れているよ、才能に恵まれているよ。そう言われてそれを信じていた、まわりの人がどんなに努力しているかつゆほども知らずに。そうやって何年か来てみれば、まわりにすっかり置いて行かれてわたしはひとり、なけなしの才能のみにしがみつく哀れな小娘に成り果てているのだ。

 

誰も努力をしないといけないなんて教えてくれなかった。誰も彼も最初だけ、他の人よりわたしが優っているなんて甘言を吐いて、あとは放ったらかし。気づけばわたしは一人きり。

 

なんて弱音を吐いてみたところで何も変わらないのはわかりきっている。努力が必要だと知っただけでよしとすべきなのだろう。これから、わたしは変わるべきなのだ。変わらなければならない。

なにもない話

無気力感に支配されている。

 

なにもする気が起こらないし眠れない。夜飲むリフレックスはもう飲んでしまったし、効いてくる頃にガバッと起きてしまって目が覚めた出来事があったので作用にまかせて眠ることができなかった。

 

外の台風の名残の雨の音をぼんやり聞いているだけで呻くほどの無気力感に襲われる。

 

こういうときの対処法を、わたしは知らない。ただじっと横たわってスマホを見るだけである。ゲームも読書も何もできない。音楽、というか耳に入る音すべて苦痛だ。

 

昼ならマイスリーを飲んでラリってやる気をむりやりひねり出すことができるのだけれども、この時間に飲むのもなんだかなあという気がする。もしかしたら本来の薬効通り寝れるのかもしれないけれど、眠れなかったとき薬を無駄にしてしまったような感じがしてどうももやもやする。よくない患者である。

 

薬が効いている!とわたしが実感できるのは夜のリフレックスマイスリーでラリることだけなので、他の薬に頼ることもできない。というかさっきソラナックス飲んだけどなんにも変わらない。

 

ごろごろするしかないのかなあ。暇だ。たいくつである。からっぽだ。虚無しかない。虚無がある、とはどういうことかしら(百万回言われてそうこれ)

 

なにかこういうときの対処法を考えるべきなのかもしれない。考えるのも面倒くさい。

うさぎの話

うさぎを飼っている。

ひとり暮らしの下宿大学生では大分珍しいのではないかと思う。灰色マーブル柄。ミニウサギ。女の子。ちょうど2歳半。

f:id:mmktkaij:20170810103902j:plain

前にもうさぎを飼っていた。その子が高2の11月に死んで、その数ヶ月後に家がさびしいなとお迎えした子である。

鼻が弱いみたいで、よくくしゃみをする。よく寝る。女の子は気性が荒いと一般にいうけれどそんなこともなく、人懐っこい性格をしている。

下宿をするとき、絶対に連れてくると決めていた。この子はわたしのものだと思っていた。飼い主のエゴだけれど。

4時間半かかる道中を、キャリーバッグを抱えて連れてきた。怖がらせてしまって本当に申し訳ないとは思ったけれど、それもエゴイスティックな考え方なんだろう。ペットなんて全部飼い主のエゴでできてるようなものだ。人間のような知能を持っていなくて(と言われていて)本当によかった。そのぶんかわいがっているつもりではいる。親に取られたくなかったの、ごめんね。

お金が貯まったらいちばんに行きつけの動物病院を探して健康診断に連れて行ってあげることが当面の目標である。

あたらしいものを食べるとき変な顔をしてすんすん鼻を鳴らすこの子が、部屋に放すとわたしのあとをついてまわって足のまわりをくるくる動き回るこの子がわたしは大好きだ。

親がやっぱり苦手なのだ、という話

母について、母への嫌悪感についてもう一度考え直してみようと思う。

きっかけは、今年のクラブの夏合宿のとき母がわたしの家に来る、その期間を聞いたときである(うちにはうさぎがいるので、長い合宿のときには誰かに世話を頼まなくてはならずいつも母に来てもらっている)。

3週間。合宿を含めて3週間、うちのワンルームに滞在するというのだ。

母の新しい再婚相手、わたしの義理の父になる人が手術で3週間かかるらしく、その間はこちら(大阪)にいたい、と母は言う。携帯の機種を変えようという時期だからそれも見に行こう、とついでのように言われた。

そして、わたしはそれをそうか、そうなのか、と当然のように承諾して、でも人と3週間もひとときも離れずいるなんて嫌だから(ただでさえ合宿で集団行動をするのに)Twitterで愚痴りまくった。

これを見た知り合いやフォロワーさんが、それは長いよね、普通じゃないよね、と言っているのを聞いて、やっと、やっとだ。わたしはこれがわたしの気持ち的なものだけじゃなく本当に少しおかしいものなのだと知った。

でも、わたしの中ではいまだにこれが普通で、親の言うことは聞くべきで、反論は少しはすれども結局結論は変えられない、という思いが大半を占めている。だがこの親には反抗してはいけない、という考えに相反して、わたしは母が大の苦手である。これをどうしたものか、考えた。

考えて、とりあえず母に対する感情を整理してみよう、と思った。好きなところ、嫌いなところを思いつくままに挙げてみよう。これを読む物好きな方にはちょっとだけ付き合ってほしい。こういうのが苦手な方は読み飛ばしてください。

まず、母の好きな部分。

  • 幼いわたしに本を与えてくれた。
  • 習字を6年間やらせてくれた。
  • ピアノを1年間習わせてくれた。
  • 頭がいいと褒めてくれた。
  • 見た目が若いこと。
  • わたしに対してあまり怒らない。
  • わたしを育てるお金の多くを稼いでくれた。
  • 漢検を受けるきっかけをくれた。
  • 風呂に入らなくても気にしないところ。
  • わたしが小学生のとき、わたしの気まぐれな四字熟語やことわざを言い合う遊びに何回も付き合ってくれたこと。
  • 本や文具なら何でも買い与えてくれたこと。

次に、母の苦手な部分。

  • 煙草を吸うこと。
  • 他に娘がいることや父のことなど、母に関する物事をわたしに教えてくれなかったこと。
  • 店員さんに対して厳しいこと。
  • 高2でわたしの具合が悪くなってわたしが病院に行きたいと最初に行ったとき、すぐに連れて行ってくれなかったこと。
  • 小1のとき中之島のビアクルーズに父と3人で行ったとき、父が悪酔いして駅の中で吐いたのに笑ってわたしと父を連れて逃げたこと。
  • それを翌日覚えていなかったこと。
  • 服の趣味をわたしに押し付けたこと。
  • 倫理的というか、マナー的にグレーなことを平気な顔してやるところ。
  • 公共交通機関の中で喋る声が大きいところ。
  • わたしと一緒に遊んでいた友達をバカにしたときがあった。
  • わたしの家を宿として平気で何週間も使い、そのくせ料理も何もしてくれないこと。

……羅列してみた。

気がついたこと。なんだろう、ちゃんと好きなところもあるのに、こう苦手な部分が大きすぎるんだ。小1のビアクルーズの記憶は頭にこびりついて離れない。誰にも言ったことはないけれど、そこから若干嘔吐恐怖があるくらいだ。

そもそもの倫理観やそういうものがわたしの性格と違うのだと自分で思っているのだな、と、書いてみて考えた。

わたしはかなり潔癖な(風呂は入らないことがあるが、自分で決めたルールはなにがなんでも守りたいと思う)ほうなので、母のルーズな感覚についていけないというのもあるのかもしれない。

さあこれをどうしたものか。母に対してどう接するかは、いまだにわたしの中でも決めかねているところがある。前の記事で「育ててくれた感謝を示し、その上で離れたい」というようなことを書いたが、どうやって離れればいいのかも、どうやって感謝を示せばいいのかすらもわからないのだ。生んでくれてありがとう、なんて、そんな歯の浮くようなことまったく思わないし考えただけでも鳥肌が立つ。学校行事の節目節目で親に感謝しましょうと言われ続けて、何枚も手紙を書かされて、でもわたしが書けるのはいつも数行で。周りの同級生たちがすらすら書いているのが信じられなかった。

上記のとおりたくさんしてもらったことはあるのに、感謝するような気にもなれないのだ。まったく親不孝なものである。

そう、親不孝。このことばがわたしを縛っている。つまり、育ててくれた親に感謝もできないのか、と糾弾されたり引かれたりすることが怖いのだ。利己の極み。

この自己保身をなんとしようか。誰か有名人が「私は上流階級の家柄の育ちですが親が嫌いです」なんて声明を発表してくれないだろうか。そうすれば世の中の親不孝ということばの重みも少しは軽くなる気がするのになあ。そんなことしか考えられず長々とこんな文章を書いてしまった。何も結論が出ていない。とにかく愚痴を言いたかっただけだな。ブログに書けるだけマシなのかもしれない。いつか解決できたらなあ、と思う。