人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

本が読めない話

本が読めない。つらい。

わたしにとって本っていうのはさ、生活の一部だったのよ。ミステリが大好きで、他のジャンルも大好きで、1日1冊は普通で、読むことが日々の楽しみでしたわけですよ。

それが今ではきみ、1ページ読むのに十何分何十分、ひどいときには頭に入って来ないのがつらくて読むのをやめてしまうわけで。実用書ならまだ読めるけど、物語だとほんとうにだめ。

楽しくて読んでいたはずなのにいつのまにか義務になって、苦行になって。

いつも本を持ち歩いていたのに、枕元にはかならず本があったのに、見るのも苦痛になったりして。

趣味が義務に感じられると病んでるって言うけれど、本当にそうだなと思う。

どうしてこんなに読めないのか。つらすぎるでしょ。どうすればいいんだ。わたしは本が読みたいぞ。

MPの話

MP(メンタルパワー)と呼んでいるものがある。よく、「ひとと話すことで回復するMPがある」といわれる。それはわかる。わたしもTwitterがなければ塞ぎ込んでしまうだろうから。

でも、面と向かって話すことでそうでないよりも多く回復するといわれると、うん?となってしまう。

わたしはひとと話すと疲れてしまってむしろMPが削れる傾向にある気がする。気力ややる気は出ることがあっても、癒やされることがない。

誰とも会わない、話さない。わたしはこれが最高級の贅沢だと思う。Twitter上でしか話をしたくない。Twitterも、リプライよりも壁打ちツイートやエアリプのほうが好きだ。

でも、そうではない、Twitterだけじゃ人の声を聞いていないのでしんどい、という人が少なからずいることに驚いている。

そういう方はわたしからすれば明るいなあと、よく頑張れるなあと思ってしまうが、きっとそのひとにとっては頑張らずともできることなのだろう。

わたしは根のいちばん奥、根っこも根っこから根暗なのかもしれない、と思ってしまう。

叔母が無理だった話

帰省したとき、成人式に出た。成人式のあとの同窓会にも出た。

同窓会に来ていく服の上に着るコートを叔母から借りた。叔母は派手な人で、パーティードレスやコートなんかもたくさん持っているので。

その叔母にコートを見繕ってもらっているとき、マフラーを持ってきたかと訊かれた。

ので、わたしのお気に入りを持ってきた、と自分の人間失格マフラーを見せると、めちゃくちゃ笑われた。「タオルを巻いてるみたいよ」と言われた。

ショックだった。ショックだったけど、それを悟られるのが嫌で笑った。そんなことないよって笑った。

それだけ。それだけなんだけど、他のことも色々思い出して無理になった。

そういえば子どもを怒鳴りつける人だったな、とか。芸能人の身体的特徴について笑う人だったな、とか。煙草を吸う人だったな、とか。最後のはただの私怨だけど。

高知に帰ってこないならこっちから行く、と言われたけれども(アクティブな人なのでたぶん実際に来る)やめてくれって感じだ。

とりあえずそろそろ親類と縁を切りたい。無理だけど。

ただの愚痴でしたありがとうござい。

父の話

このあいだ、わたしは名実ともに成人した。そう、成人したのだ。ハタチになって、誰にも保護されない自由の身になった。

というわけで、わたしははじめて父親のことを母に訊いた。今まで何も教えてくれなかったから、とてもとても勇気が要ることだった。

「私の実父について教えて もう成人したんだから知る権利はあるはずでしょう」

そのあと電話をして、ほぼ洗いざらい教えてもらった、と思う。

 

わたしの父は、わたしが生まれるずっと前からコンビニを経営していた。そのコンビニはあまり羽振りがよくなくて、自転車操業でなんとかやっていけているといった具合だった。

わたしが生まれてから、その自転車操業ぐあいはますます加速した。色々なところに借金をし、それがますます父の首を絞めた。

父はほんとうに色々な人にお金を借りていた。銀行、サラ金、友人、妻(わたしの母)の両親。友人には詐欺まがいのことをしてまで借金をしていたようだ。母の両親からは800万。それはいまだに残っている。母が連帯保証人になったもの、母の父(わたしの祖父)が連帯保証人になったもの。ほんとうにたくさん。

それでうまくいくはずもなく、経営はもはや火の車になってしまった。

もう無理、となってから、父はおそらく自分ひとりでたくさんのことを考え、何が最善かを探り、答えを出した。周りの人にそれを伝えたのは、わたしたち母娘が夜逃げ同然で引っ越すわずか2日前だったそうだ。

そこからはほんとうにバタバタした。わたしたち母娘は引っ越しの準備をし、父は自己破産の手続きをしてから、友人に対する詐欺を告白するためみずから警察に出向いていった。

高知に引っ越したあとも、母には肩代わりした借金が残っていた。クレジットカードが作れなかったのも、自己破産をしたから。細々と暮らしをしていたのも本当にお金がなかったのだろう。祖父母は800万の借金をもういいと言ってくれた代わりに、わたしの成長を見守らせて、お金を出させてほしいそうだ。

父と離れてから、母はしばらく父の居所である山口県と文通を続けていた。中学生くらいで、ちらっとその住所を見たことがあった。刑務所の付近だった。わたしはその時点で父が何かしたのではないかと思い始めていたので、今回の話はなんら意外ではなかった。

そこを出て大阪に戻るとき、父には身元引受人がいなかった。父の両親は他界していたし、唯一の肉親である弟には引受を拒否されていた。よって、そういった人の支援をするNPOに身元を引き受けてもらったそうだ。

NPOの手を借りて就労し、ある程度お金が貯まったところで家を借りて住み始めた。今は、誰でも雇ってくれるような安い給料のパートではあるが就職して頑張って働いているという。母はたまに会っていたそうだが、かなり老け込んでしまったと言っていた。

 

わたしが会うも合わないも自由だ、と言われた。考えてみたけれど、一度時間があるときに手紙を出してみようかと思う。

この記事→転換期の話・そして父の話 - 人影のない冷い椅子はの真相はこれでわかった。

 

そして、わたしのこと。両親がこんなお金の状態なので、わたしを育てるお金などあるはずがなかった。

ゆえに、祖父母、母の再婚相手、色々なところからお金を出してもらって今のわたしがある。これを返済し切るまで、わたしはこの家系からは離れられない。

HSPを名乗ることの話

あけましておめでとうございます。2017年もわたしは生きていました。今年も生きられるならば生きてみたいと思います。

 

 

さて、今日の話はあるパーソナリティを表すアルファベット3文字について。

 

Highly Sensitive Person。略してHSP

感受性や感情共感が強すぎたり、感覚が鋭かったりする。詳しくはリンク先で見てみたらよくわかるかもしれない。【HSP】敏感、繊細、感受性が強い人へ。診断や活かした生き方と出来る仕事 | メンタルてんきよほー

わたしがこの言葉を知ったのはいつだろうか、少なくとも高校時代には知っていた気がする。最近わりと注目されるようになって、こんな本も出たので買ってみた。

 

コミックエッセイ 敏感過ぎる自分に困っています

コミックエッセイ 敏感過ぎる自分に困っています

 

自分でも当てはまることが多くてやっぱりそうなのだなと思いながら読んだり、わたしはそこまでじゃないなと思いながら読んだりしたんだけれども、ただひとつ、この本を読んでいる最中にはっと気づいたことがある。

わたしはHSPということばを知って以来、ずっとこれを名乗っていいのだろうかと迷って悩んでいた。

けれども、迷うことなんてなかった。これはセクシャリティと同じだ。要するに、個人のアイデンティティなんだ。病気ではなく性格のひとつなのだから、自分がそうだと思うなら自由に受け入れて、名乗ってよいのだと思う。逆に、もしこれに当てはまっても自分がそれを名乗ることで不都合やいやなことがあるなら名乗らなくてよいのだ。

いちパーソナリティという性質だから、そういうことが成り立つんだと思う。誰にも介入させることはできないことであると思う。

わたしはこれを受け入れた上で、HSP的性格を活かせるような生き方をしていきたいと、いまは思っている。

 

 

 

人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 (文春新書 (074))

人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 (文春新書 (074))

 

 

 

 

というわけで、HSPのおはなしでした。今年もどうぞよろしく。

音楽を聴くのが苦手になった話

音楽系サークルに入っといていきなりなんやねんという話ですが。

 

うつになってから、音楽を積極的にあまり聴かなくなった。人が音楽を聴いているのを横で見ていてもつらくなってくることがある。

物心ついたころから歌、音楽に親しんできたわたしにとって、それは我ながら衝撃的なことだった。今まで吹奏楽部でみんながつらいつらいと言いながら曲を吹いていても、自分は演奏は楽しいのになあと思いながら(技術や表現がうまくいかないことや人間関係がつらかった)過ごしていたのに。

わたしがなぜそうなってしまったか今まで自分でもわからなかったのだけれど、思い当たることがいろいろ出てきたのでつらつらと書いてみよう、と思う。

 

  • 中高の部活時代でのつらい記憶がよみがえる。

これは主に吹奏楽を聴いていて。今までやった課題曲とかフルート曲とかそういうのを聴くとつらくなっていた。今はあまりないかも。克服できつつある。

 

  • 自分がもうあそこにいないのだという空虚感。

これも吹奏楽。自分が引退したあとの課題曲やら、後代のコンクールの動画やらを見るのがしんどい。わたしはもうあそこに座ってフルートを吹けないのだという虚無感。

 

  • 大きな音が以前にも増して苦手になった。

感覚過敏ぎみになって、うるさい音が頭に響くようになった。でもこれは音楽に限らない。というか音楽なら多少うるさくても我慢できるが人の話し声とかだとかなりくらくらする。

 

  • プラスの感情の振れがマイナスに直結する。

考えていて、これがいちばん大きいのかなあと思った。音楽を聴いて感動して、その昂ぶった波がそのまま落ちていく。感動の涙だったはずなのに、鬱のドツボにはまりこんで泣いてしまう。アーティストの歌だと、普段なら気にしないSNSに書かれたそのアーティストの悪口にひどく傷ついてしまう。つらい。

 

こんなかんじ。

でももうひとつ気がついたのが、

「自分が参加していれば落ち込まない」

ということ。クラブなら合奏に参加する。カラオケに行って歌う。自分が表現する側に回ればこのつらさは回避できる。そういうこと。

だからたぶんわたしは今も音楽をやっていて、これから先もどんな形であれ音楽をやり続ける。

そうでないとしんどいから。そうでないとわたしの生気は音楽に吸い取られに吸い取られてしまうから。

なんて消極的な理由なんだろう。

でもこれがわたしのひとつの真実なのだ。

代替わりをした話

うちのクラブの定期演奏会が終わり、代替わりをした。

わたしたちの代が幹部となる。このあいだ大学に入った気がするのに、時の流れというものは早い。

先輩の期待は重くのしかかり、自分への自信のなさはますます自分を追い詰める。うつを免罪符にするつもりなんてさらさらないけれど、どうなるのか、どうなってしまうのかはなはだ不安である。わたしは幹部代を生き残れるのだろうか。

もちろん楽しいこともたくさんある。楽器を習うことになってもっと高みを目指せる。合奏に自分の好きなように口を出せる。たくさんの楽しい演奏ができる。好きなように宣伝ができる。

けれど、やっぱりこれからの運営側に立つ1年を思うたび心臓が握り潰されそうになる。助けてくれと、もういやだと、叫びだしたくなる。

わたしはクラブを運営したいわけではない。ただ楽しく楽器を弾いていたい。広報になったのも気楽に宣伝ができると思ったからだ。

でも、運営に関わらないわけにもいかないのだ。自分が楽しいだけじゃ、駄目なのだ。わたしたちの努力のもとで後輩たちの「楽しい」がある。なければならない。わたしたちは部の存続のために必死にならなければならない。

腹は決まっているつもりだけれど、まだまだやれることはある。もう一度覚悟をしなければならないのだろう。