人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

才能とファンか否かの話

部活の同期に泣きついてルルアタックNXなるものを買ってきてもらってなんとか翌朝には風邪の症状はおさまりました。小康状態。

 

先日、ある作家さんのトークイベントに行ってきました。名前出してもいいのかな、道尾秀介先生。

大学の生協組合主催の小さめのイベント。タダでお話が聴けてサインがもらえるなんて、って最高に楽しみにしていた。実質とっても有意義なお話が聴けた。執筆活動ではない音楽だったりそういう他の趣味でさえも書く小説とひとつながりで、だからこそ今まで執筆を続けていられる、と。小説と他のことが完全に隔てられていたなら小説は仕事でしかなくなってしまうし、できたものもおもしろくなくなってしまう、と。この「おもしろくない」というフレーズは今回道尾さんの口からよく聞いた。「今回は違った雰囲気のものを創りたいんだけどいつもの作風と違うと思われたら、って気にしだして、お金だとか、売れるかだとか、評判だとかを意識するようになった作品はおもしろくないよね」、だとか。他の文脈は忘れたけれどたくさん使っていらっしゃった印象的なことば。

サインもいただいたし、サインの横の名前をハンドルネームにしていただくことも快く了承してくださって、お話までしてくださってうちに宝物がひとつ増えた。

それでも帰途気持ちがざわついていたのは、たぶん2時間かけて帰らなければいけなかったからだけじゃない。

学生からの質疑応答というかたちで進んだこのイベントで、周りの人がどれだけ『向日葵の咲かない夏』が好きか、『カササギたちの四季』が好きか、道尾作品が好きか、が否が応でも伝わってきた。わたしは道尾作品が好きだけど、その伝え方がわからない。きっと同じくらい思い入れがあるのに質疑応答に手を挙げる勇気もそんな中身の詰まった質問もない。ファンレターを書いてもおそらくふつうの、ごくごくありふれたテンプレートにすぎないものになってしまう。それは果たしてファン、マニアと呼べるのだろうか。言い換えれば、そのことはわたし自身に自分をマニアだと呼ばしめることができないのではないか。わたしにもっと文章力、発想力と考えを練る力があれば何かを先生の中に残せたかもしれないのに。そうすればわたしは先生のファン、マニア、クラスタであると自信を持って言うことができるのに。これは確かに手を挙げて質問をぶつけた人への嫉妬であった。

それから、先生についてトークを通じて痛感したこともある。その才能のこと。先生はありあまるほどの才能を持っていて、それを活用できるという確固たる自信を持っている。もし似たものを誰か他のクリエイターがつくっていても、それを超えていく、個性によって道尾作品だと正面切って言えるものを書くことができるという自信を持っている。わたしは一度小説を書こうとしてとんでもない挫折をして、自分の中の才能なんてものには関心も期待もなくしてしまった。この差を、もう刺さって刺さって痛いほど感じて、終わる頃には打ちのめされてしまった。

そんなわけで、このたび得たものは『プロムナード』の見返しに直筆で書かれたわたし宛の達筆なサインと「おもしろくない」ものの定義のひとつ、それから先生のシュッとした雰囲気とユーモアの含まれた喋りの思い出。失ったものはファン参加型イベントへの意欲。同じものが好きなファンを目にしたくないという意見は聞くことがあるけれど、それはこういう理由も含まれているのかなあなどと思ったりもした。

下書きを重ねているうちに何がいちばん書きたかったのか忘れてしまった。先生の声も思い出せない。尻切れとんぼ感はあるけれどこれで終わりにする。

あ、道尾作品は素晴らしいのでこれからも好きで居続けます。どの作品も色が違っておもしろいよ。