人影のない冷い椅子は

だいたい薬でわーってなって超読みにくい文を書いてます

小学生時代の話

自分語り再開。ちなみに前回はこれ→幼少時代の話 - 人影のない冷い椅子は

 

小学校に入ったわたし…のことは、正直あまり覚えていない。毎日をぼんやりと過ごしていたからだろう。学校に行って、チューリップが植えられた花壇の横を通って教室に行って、1日そこで過ごして、誰もいない(3時とか4時なので)家に帰って、ランドセルをダイニングに投げ出したままフローリングの床に座って再放送のナースのお仕事牡丹と薔薇はぐれ刑事純情派を見ていた。ぼんやりと。

土曜日はふしぎ星のふたご姫、日曜日はプリキュアを観て親のコンビニに行った。従業員の子どもがわたしと同い年でいつも遊んでいた。その子は少し知恵足らずではあったけれど天真爛漫な子だった。くだらないことでガハハハと一緒に笑うわたしを親は「あの子に合わせなくていい」と言ったけれど、あの子を下に見ていることが見え透いていて(当時わたしも勉強のできないその子をそう思っていたけれど)むしろ反発心でその子に合わせ続けた。

学校では持ち前の人見知りを発揮してなかなか友達を作れずにいたことを覚えている。一度友達と遊ぼう、と待ち合わせをしたことがあるのだけれど、いつまで待っても相手は待ち合わせ場所に来ずそのまま帰った。3歳のころからひどいアトピーに悩まされていたので引っ込み思案なのはその劣等感もあったのだと思う。薬の記憶が強くて今でも顔に何か塗るのはあまり好きではない。何年生のときだったか、転校してきた男の子がいた。それまでクラスメイトたちはわたしの顔や腕のアトピー性皮膚炎に触れないでいてくれたんだけれど、そやつは思ったことを即座に口に出す子で(特別学級にときどき行っていたのでおそらく少し発達に難があったのだと思う)無遠慮にわたしを「ブツブツ」と呼んだ。そのときどう思ったのかはもう覚えていない。ただ給食当番がいつもペアなのが嫌で嫌で仕方がなかった。

1年生から毛筆と硬筆を習いはじめた。たぶん親の意向だったんだと思う。たしかに字が綺麗だとなんとなく印象がいいし褒められると嬉しい。まあそこでも引っ込み思案なので「先生できました」が言えず、見回りに来るまで書き直し続けていたのだけれども。

あとは、そうだなあ、保育園からの友達とその友達の3人でなぜか学校のイベントの野外ステージに出た。大塚愛の『さくらんぼ』。2年生までは出たんだけど、3年生になってメンバーが増えると「ああわたしはここにいてはいけないな」と本能的に察してそのグループから抜けた。友達に引っ張られて一瞬だけ頭を突っ込んだスクールカースト上位の世界だった。

それから、1年生のおわりに学校に人が侵入して先生を殺した。殺人事件だ。その時間は6時間目の時間帯で低学年はもう帰っていて、わたしはやけにうるさいヘリコプターを気にしていた。あとで3人の先生が刺されてひとりが亡くなった事件があったことを知った。担任の先生も刺されていた。まったく実感なんてなくて、そうなのかあ、としか思わなかった。この微妙な倫理観の欠如はいまもわたしの中にあって、欠如があるっておかしいのか、まああって、それはたびたびわたしを悩ませたりもする。ちなみにその先生は幸い数ヶ月後に復帰した。

3年生になったときの転校生の女の子がわたしの救世主(そう言ってはちょっと大げさかもしれない)だった。なんだろう、波長が合ったのだと思う。

わたしの記憶では転校してきてかなりすぐに仲良くなった覚えがある。いつもリコーダーを吹いて遊んでいたし冬のマラソンも一緒に走った。家にもお邪魔したこともある。その子はピアノを習っていて、アラベスクを弾いて聴かせてくれた。

その子の影響かどうかは覚えていないけれど、3年生の途中からピアノを習いはじめた。習字と同じように引っ込み思案ながらわりと楽しく通っていたように思う。

そんな、まあまあ平穏(わたしなりに)な大阪での生活は突然終わった。ほんとうに突然だった。次(お節介なリンク→転換期の話・そして父の話 - 人影のない冷い椅子は)でそのことを主観的に綴ろうとおもう。