人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

あのときの話

未遂から1ヶ月が経とうとしている。

だいたい落ち着いてきたので、あのときどう思っていたのか、今なにを思っているのか、それを整理してみたいと思う。

 

あのときのトリガーは過食嘔吐だったと思う。

もともと嘔吐恐怖があったのに吐いて、身も心もボロボロになって、疲れていて自棄になっていた。深い絶望よりも、かるい絶望のほうがフットワークが軽いので自殺に走りやすいのだなと思った。うつの治りかけの人や躁状態の人が自殺しやすいのはこういうことか、と身をもって知った。

そのときの心情は、「あ、今なら死ねるんじゃね」という感じ。さっきも言ったけれど、とっても軽い。だから怖い。

救急車を呼んで、運ばれて入院をして。パートナーが帰省先からわざわざ帰ってきてくれて、わたしが病院にいるあいだに血塗れの洗面所の掃除をしてくれた。心底存在をありがたく思った。「血だらけで気持ち悪くなかった?」と訊いたら「経験したことなかったから(当たり前だ)びっくりしたけど気持ち悪くはなかったよ」とのこと。なんだよ菩薩かよ。洗面所だけじゃなくて部屋の片付けもしてくれた。マジで菩薩かよ。

それから次の日に、母が来て。母はわたしの腕の切創や自傷跡を見て「なにそれいつからそんなことしてたの」と言っただけで、深いことは何も聞いてこなかった。逆にありがたい。

退院のときも母と一緒に帰って、それから一日おきくらいに訪問されるようになった。ちょうど大叔父の葬式と被ったので長く滞在していた、というのもあって、それから3週間ほど訪問されたりされなかったりの日々が続いた。家事をしてすぐ帰らせたので家政婦さんみたいで便利であった。

 

そのあいだ、気分は激しい乱高下を続けた。もう絶対しない、という気持ちだったのに、その1時間後には死にたい死にたい死にたい、と喚きながら太ももをカッターで切っていた。

自殺未遂をしたことでなにかのタガが外れたようで、−10〜+10くらいだった気分の振れ幅が、−100〜+5くらいになった。薬を多めに飲まないとやっていられないくらいにボロボロになってしまった。直後の数週間はうさぎの世話もできなかったので、すべて母に任せていた。

といっても今は落ち着いて、パートナーに頼りながら、友人と支え合いながら、なんとか過ごしている。

 

これから先同じことをしないように、パートナーと約束をした。メンヘラ.jpのこの記事(https://menhera.jp/2118)を参考にした。

わたしはいま、マンドリンクラブを糧に生きている。11月の定期演奏会に向けて必死で頑張っている。

それが終わったときどうなるか、わからないけれどなんとなく想像はつく。もう生きる意味なんてない、と思うだろう。

だから、定期演奏会が終わったらすぐに引き摺ってでも病院に連れて行ってくれ、とパートナーに頼んだ。また、12月よりあとの予定も入れることで強制的に生きるように仕組んだ。

それから、髪を染めようと決心した。マンドリンはステージマナーが厳しいので、派手な髪色にできない。だから舞台から降りたら派手な色にしてやろうと決めた。

これで、強制的に死なないようにする。

 

 

どうして救急車を呼んだのだろう、と考えることがある。死ぬのなら、Twitterなんかに書き込まずにひっそり死ねばよいのに。

わたしの結論として、実験的にやってしまったのかもしれない、と思っている。死なないつもりだったわけじゃないけど、自分が死ぬとなったらどうなるのだろう、という少しの好奇心。この傍迷惑な好奇心のせいで大騒ぎになって、そしてこの好奇心のおかげで死なずに済んだわけだけれど。

たくさんの人が心配してくれた。消えない傷が手首にも過去にもできた。いいことも悪いこともあった。お金もかかった。もう自殺しない、と今は思えている。

それでもいつ落ちるかわからない。怖いけれど、色々な人に頼ってなんとかやっていけたらと思う。