人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

父の話

このあいだ、わたしは名実ともに成人した。そう、成人したのだ。ハタチになって、誰にも保護されない自由の身になった。

というわけで、わたしははじめて父親のことを母に訊いた。今まで何も教えてくれなかったから、とてもとても勇気が要ることだった。

「私の実父について教えて もう成人したんだから知る権利はあるはずでしょう」

そのあと電話をして、ほぼ洗いざらい教えてもらった、と思う。

 

わたしの父は、わたしが生まれるずっと前からコンビニを経営していた。そのコンビニはあまり羽振りがよくなくて、自転車操業でなんとかやっていけているといった具合だった。

わたしが生まれてから、その自転車操業ぐあいはますます加速した。色々なところに借金をし、それがますます父の首を絞めた。

父はほんとうに色々な人にお金を借りていた。銀行、サラ金、友人、妻(わたしの母)の両親。友人には詐欺まがいのことをしてまで借金をしていたようだ。母の両親からは800万。それはいまだに残っている。母が連帯保証人になったもの、母の父(わたしの祖父)が連帯保証人になったもの。ほんとうにたくさん。

それでうまくいくはずもなく、経営はもはや火の車になってしまった。

もう無理、となってから、父はおそらく自分ひとりでたくさんのことを考え、何が最善かを探り、答えを出した。周りの人にそれを伝えたのは、わたしたち母娘が夜逃げ同然で引っ越すわずか2日前だったそうだ。

そこからはほんとうにバタバタした。わたしたち母娘は引っ越しの準備をし、父は自己破産の手続きをしてから、友人に対する詐欺を告白するためみずから警察に出向いていった。

高知に引っ越したあとも、母には肩代わりした借金が残っていた。クレジットカードが作れなかったのも、自己破産をしたから。細々と暮らしをしていたのも本当にお金がなかったのだろう。祖父母は800万の借金をもういいと言ってくれた代わりに、わたしの成長を見守らせて、お金を出させてほしいそうだ。

父と離れてから、母はしばらく父の居所である山口県と文通を続けていた。中学生くらいで、ちらっとその住所を見たことがあった。刑務所の付近だった。わたしはその時点で父が何かしたのではないかと思い始めていたので、今回の話はなんら意外ではなかった。

そこを出て大阪に戻るとき、父には身元引受人がいなかった。父の両親は他界していたし、唯一の肉親である弟には引受を拒否されていた。よって、そういった人の支援をするNPOに身元を引き受けてもらったそうだ。

NPOの手を借りて就労し、ある程度お金が貯まったところで家を借りて住み始めた。今は、誰でも雇ってくれるような安い給料のパートではあるが就職して頑張って働いているという。母はたまに会っていたそうだが、かなり老け込んでしまったと言っていた。

 

わたしが会うも合わないも自由だ、と言われた。考えてみたけれど、一度時間があるときに手紙を出してみようかと思う。

この記事→転換期の話・そして父の話 - 人影のない冷い椅子はの真相はこれでわかった。

 

そして、わたしのこと。両親がこんなお金の状態なので、わたしを育てるお金などあるはずがなかった。

ゆえに、祖父母、母の再婚相手、色々なところからお金を出してもらって今のわたしがある。これを返済し切るまで、わたしはこの家系からは離れられない。

HSPを名乗ることの話

あけましておめでとうございます。2017年もわたしは生きていました。今年も生きられるならば生きてみたいと思います。

 

 

さて、今日の話はあるパーソナリティを表すアルファベット3文字について。

 

Highly Sensitive Person。略してHSP

感受性や感情共感が強すぎたり、感覚が鋭かったりする。詳しくはリンク先で見てみたらよくわかるかもしれない。【HSP】敏感、繊細、感受性が強い人へ。診断や活かした生き方と出来る仕事 | メンタルてんきよほー

わたしがこの言葉を知ったのはいつだろうか、少なくとも高校時代には知っていた気がする。最近わりと注目されるようになって、こんな本も出たので買ってみた。

 

コミックエッセイ 敏感過ぎる自分に困っています

コミックエッセイ 敏感過ぎる自分に困っています

 

自分でも当てはまることが多くてやっぱりそうなのだなと思いながら読んだり、わたしはそこまでじゃないなと思いながら読んだりしたんだけれども、ただひとつ、この本を読んでいる最中にはっと気づいたことがある。

わたしはHSPということばを知って以来、ずっとこれを名乗っていいのだろうかと迷って悩んでいた。

けれども、迷うことなんてなかった。これはセクシャリティと同じだ。要するに、個人のアイデンティティなんだ。病気ではなく性格のひとつなのだから、自分がそうだと思うなら自由に受け入れて、名乗ってよいのだと思う。逆に、もしこれに当てはまっても自分がそれを名乗ることで不都合やいやなことがあるなら名乗らなくてよいのだ。

いちパーソナリティという性質だから、そういうことが成り立つんだと思う。誰にも介入させることはできないことであると思う。

わたしはこれを受け入れた上で、HSP的性格を活かせるような生き方をしていきたいと、いまは思っている。

 

 

 

人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 (文春新書 (074))

人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 (文春新書 (074))

 

 

 

 

というわけで、HSPのおはなしでした。今年もどうぞよろしく。

音楽を聴くのが苦手になった話

音楽系サークルに入っといていきなりなんやねんという話ですが。

 

うつになってから、音楽を積極的にあまり聴かなくなった。人が音楽を聴いているのを横で見ていてもつらくなってくることがある。

物心ついたころから歌、音楽に親しんできたわたしにとって、それは我ながら衝撃的なことだった。今まで吹奏楽部でみんながつらいつらいと言いながら曲を吹いていても、自分は演奏は楽しいのになあと思いながら(技術や表現がうまくいかないことや人間関係がつらかった)過ごしていたのに。

わたしがなぜそうなってしまったか今まで自分でもわからなかったのだけれど、思い当たることがいろいろ出てきたのでつらつらと書いてみよう、と思う。

 

  • 中高の部活時代でのつらい記憶がよみがえる。

これは主に吹奏楽を聴いていて。今までやった課題曲とかフルート曲とかそういうのを聴くとつらくなっていた。今はあまりないかも。克服できつつある。

 

  • 自分がもうあそこにいないのだという空虚感。

これも吹奏楽。自分が引退したあとの課題曲やら、後代のコンクールの動画やらを見るのがしんどい。わたしはもうあそこに座ってフルートを吹けないのだという虚無感。

 

  • 大きな音が以前にも増して苦手になった。

感覚過敏ぎみになって、うるさい音が頭に響くようになった。でもこれは音楽に限らない。というか音楽なら多少うるさくても我慢できるが人の話し声とかだとかなりくらくらする。

 

  • プラスの感情の振れがマイナスに直結する。

考えていて、これがいちばん大きいのかなあと思った。音楽を聴いて感動して、その昂ぶった波がそのまま落ちていく。感動の涙だったはずなのに、鬱のドツボにはまりこんで泣いてしまう。アーティストの歌だと、普段なら気にしないSNSに書かれたそのアーティストの悪口にひどく傷ついてしまう。つらい。

 

こんなかんじ。

でももうひとつ気がついたのが、

「自分が参加していれば落ち込まない」

ということ。クラブなら合奏に参加する。カラオケに行って歌う。自分が表現する側に回ればこのつらさは回避できる。そういうこと。

だからたぶんわたしは今も音楽をやっていて、これから先もどんな形であれ音楽をやり続ける。

そうでないとしんどいから。そうでないとわたしの生気は音楽に吸い取られに吸い取られてしまうから。

なんて消極的な理由なんだろう。

でもこれがわたしのひとつの真実なのだ。

代替わりをした話

うちのクラブの定期演奏会が終わり、代替わりをした。

わたしたちの代が幹部となる。このあいだ大学に入った気がするのに、時の流れというものは早い。

先輩の期待は重くのしかかり、自分への自信のなさはますます自分を追い詰める。うつを免罪符にするつもりなんてさらさらないけれど、どうなるのか、どうなってしまうのかはなはだ不安である。わたしは幹部代を生き残れるのだろうか。

もちろん楽しいこともたくさんある。楽器を習うことになってもっと高みを目指せる。合奏に自分の好きなように口を出せる。たくさんの楽しい演奏ができる。好きなように宣伝ができる。

けれど、やっぱりこれからの運営側に立つ1年を思うたび心臓が握り潰されそうになる。助けてくれと、もういやだと、叫びだしたくなる。

わたしはクラブを運営したいわけではない。ただ楽しく楽器を弾いていたい。広報になったのも気楽に宣伝ができると思ったからだ。

でも、運営に関わらないわけにもいかないのだ。自分が楽しいだけじゃ、駄目なのだ。わたしたちの努力のもとで後輩たちの「楽しい」がある。なければならない。わたしたちは部の存続のために必死にならなければならない。

腹は決まっているつもりだけれど、まだまだやれることはある。もう一度覚悟をしなければならないのだろう。

はじめて救急車で運ばれた話

11月19日。

その日はクラブの定演リハの日だった。

午前中に通しリハを終えて、パートでごはんに行って、合奏場に帰ると1時。そこからパート練習をして手直しの合奏3時間。考えてみればまあまあハードだった。

2時半ごろ、手直し合奏の1回目の途中から手が震え出した。2回目はとりあえず休もうと合奏場の後ろでうずくまって耐えた。

2回目が終わる頃には体に力が入らず、声もほとんど出なくなっていた。同期が2度ほど声をかけてくれたが、蚊の鳴くような声しか出ずコミュニケーションを諦めた。

1日のスケジュールが終わっても屍と化していた。夕方やっと少しずつ体が動くようになってきて、起き上がり、水と薬を飲み、あたりを見回す、というそれぞれの行為を10分くらいずつかけて行った。

帰らなければ、と思った。早く帰れとその場のすべての人から言われているような気がした。側にあった荷物を掴んで合奏場を出た。

楽器置き場に行くより楽器を持って帰ったほうが消費エネルギーが少ないと咄嗟に思った。楽器置き場に向かう道に人がたくさんいたこともそう思った理由のひとつだった。約700m歩けば家なので、行けないはずはなかった。

だが、大学をちょうど横切るかたちになる道筋の3分の1ほどで、体力と気力が同時に限界を知らせた。もしかするとどちらかが先に尽きていて、残りのほうでなんとかもっていたのかもしれない。

楽器と荷物を置いて、地面に座って、同期であるパートナーにLINEで助けを求めた。既に泣いていた。体の中で鳴らされる警鐘と情けなさと不安でパニックになっていた。

パートナーが駆けつけてくれるまでの10分ほどが死ぬほど長く感じた。手足が氷よりも冷たいのではないかと思うほど冷えていった。矛盾するようだがもう誰でもいいから助けてくれ、楽にしてくれ、という気持ちだった。

自転車で彼が来てくれたとわかった瞬間に最後の砦が瓦解した。謝りながら泣きついたような気がする。

そこから先はあまり覚えていない。過呼吸を起こして泣きじゃくって謝り続けて、最終的に救急車を呼ばれた。誰か他の人も来ていたようだけれど誰かはわからなかった。

救急車の中ではずっと天井を見ていた。青い布か袋みたいなものが天井棚に置いてあった。なんとなく脈を測られているなあと感じていた。

病院に運ばれる頃には落ち着いていたけれど、念のためとベッドに寝かされて楽になったら出てこいと言われた。パートナーが来てくれた。良かったと泣いてくれた。申し訳ないと感じた。先輩も来てくださった。

タクシーで帰ることになった。お金を払った。痛い出費だった。先輩が慰めてくださった。聞けば、自転車で学校から遠い駅まで行き、そこから病院最寄りまで電車で来てそこから徒歩で病院までいらしたらしい。なんとまあ恵まれた人間関係を持ったものだと思う。

帰った。すぐ寝てしまった。パートナーが朝まで一緒にいてくれた。

後日、自転車で計算し直された医療費を払い戻されに行くのと母親から電話がかかってきたのが面倒臭かったので、今度もし救急車を呼ばれることがあろうとも病院まで連れて行ってもらうのはやめようと思った。おしまい。

まあ救急車なんかお世話にならないほうがもちろんいいんだけど。過呼吸の起こしかたが高校時代を思い起こさせて個人的にはつらいものがあった。というか家の中で起こしたとはいえここまで酷くてもほっといた母っていったい。

ともあれ、無事に運ばれて(?)無事に戻ってきました。ご報告。おしまい。

 

ちなみにこれを書いているこの時期はもう定演は終わっていて別のことに精一杯だったりする。またそのことについても書こうかな。それではそんな感じで。

らいねんのわたしへ

1年後の秋頃のわたしへ。

 

今日わたしはあまりの体調不良に内科に行ってきました。大学生活2年目にして2回目です。しかも同じ時期です。

 

甲状腺の病気の可能性を排除するために採血されました。以前採血でひっくり返ったことがある(医者の言葉そのまんま)ので寝て採血されました。でもたぶん異常はないです。ただの自律神経の失調です。

 

来年のわたしへ同じことを繰り返さないよう忠告します。内科には行くな。2年で8000円無駄にした。精神科の薬で乗り切れ。

1年が経とうとしているよ、という話

 

 これを書いてからもうすぐ1年が経とうとしている。1回生だったわたしには後輩ができ、部活の半分を休む幽霊部員の2回生になりつつある。

 

後輩はものすごく頼りになり、まじめながらおもしろくわたしにも気を遣ってくれる、とてもいい子である。先輩方も変わらずわたしをあたたかく見守ってくださる。

 

いつのまにこんな2回生に成り果ててしまったのだろう。

 

わたしは去年から何も変わっていない。変わっていないのに周りがどんどん変わっていくからわたしが変わり果ててしまったみたいに見えるのだ。初音ミクのkoma'nさんのBadByeってご存知?

 

昔からずっとそうだった。

 

あなたは優れているよ、才能に恵まれているよ。そう言われてそれを信じていた、まわりの人がどんなに努力しているかつゆほども知らずに。そうやって何年か来てみれば、まわりにすっかり置いて行かれてわたしはひとり、なけなしの才能のみにしがみつく哀れな小娘に成り果てているのだ。

 

誰も努力をしないといけないなんて教えてくれなかった。誰も彼も最初だけ、他の人よりわたしが優っているなんて甘言を吐いて、あとは放ったらかし。気づけばわたしは一人きり。

 

なんて弱音を吐いてみたところで何も変わらないのはわかりきっている。努力が必要だと知っただけでよしとすべきなのだろう。これから、わたしは変わるべきなのだ。変わらなければならない。