人影のない冷い椅子は

だいたいわーってなって超読みにくい文を書いてます

あいわな、の話

たくさんやりたいことができてきて、意欲があるときにはやりたい!って思うんだけどそんな準備をするほどの体力はまだないので、死ぬまでにやりたいことを備忘録とか自分への励ましの意味も込めて羅列しよう。死ぬまでにやりたい50のこと、ってやつ。マイナスのことは書かないようにする。

 

それではよーい、スタート。

 

  1. 引っ越したい。(なんで最初に出てきた願望がこれなんだろう)
  2. 本棚が入る部屋がいい。
  3. 服がたくさん入る部屋がいい。
  4. 画用紙やパレットや描きかけの絵を放置しておける作業机が欲しい。
  5. うさぎを広々と遊ばせてあげられる部屋がいい。
  6. うさぎ柄の服が欲しい。
  7. うさぎ柄のいろんなものが欲しい。
  8. 百均に行って便利グッズを買い漁りたい。3000円でこんなに!って感動したい。
  9. minneとかそういうサイトに登録してかわいいうさぎポーチとかをゲットしたい。
  10. ダンスを習いたい。ストリートでも社交ダンスでもいい。
  11. みんなの役に立ちたい。
  12. 障害者雇用を利用したいし、今後利用する人双方にとって便利になるような活動をしたい。
  13. いろんなアーティストのライブに行きたい。
  14. 欅坂46の握手会の常連になりたい。
  15. 120円で大回り乗車の旅をしたい。
  16. 青春18きっぷで遠くへ行きたい。ホステルとかに泊まりながら途中下車の旅をしたい。
  17. 太く短く生きたい。
  18. 何もしたくないときに何もしなくても自分を認められるようになりたい。
  19. 空を飛びたい。
  20. 具体的には、パラグライダー体験をしたい。
  21. バンジージャンプもしてみたい。気絶するかもしれないけど。
  22. ヒトカラに月一で行きたい。
  23. 誰かとお題カラオケをしてみたい。
  24. まわりの大切なひとたちにたくさんプレゼントをしたい。
  25. 絵の練習をたくさんしたい。
  26. いろいろな画材を使ってみたい。
  27. 綺麗になってポートレートを撮ってもらいたい。
  28. 脇と膝下を脱毛したい。
  29. 自分本位なわたしをちゃんと自覚して、ほんとうの意味で人のために動けるようになりたい。
  30. 在宅ワークで自立できるくらい稼げるようになりたい。
  31. かわいい系のメイクがうまくできるようになりたい。
  32. 母親に育ててくれたことに関しての感謝をちゃんと伝えて、それから性格が合わないことも受け入れて距離をとって暮らしたい。
  33. うさぎを定期的に健診に連れて行ってあげたい。
  34. 今までに知り合ったとても気の合う何人もの人たちとずっとTwitterでリプを飛ばし合う仲でいたい。
  35. ステージに立つ気持ちの良い緊張感と誇らしさをずっと忘れないでいたい。
  36. 漢検1級を取りたい。
  37. そのほかにも資格をたくさん取りたい。
  38. ロリータブランドやfavoriteのかわいい服をたくさん着たい。
  39. きちんとした遺書を書きたい。ネガティブな意味じゃなく、もし何かあったときまわりの人が必要以上に混乱しないように。
  40. 本をたくさん読みたい。
  41. 太宰を読破したい。
  42. 学術書もたくさん読みたい。
  43. それらの本について、引用でいいからきちんとよいところを語れるようになりたい。
  44. 耳管開放症を治したい。
  45. 病気とうまく付き合いながら過ごしていつかは寛解に持っていきたい。
  46. アトピー肌に合うコスメをいろいろ試してみたい。
  47. ネイルもしてみたい。付け爪がいいかなあとも思う。
  48. 人の不幸に異常に敏感だけど人の死を悲しめない自分を少しでも肯定したい。
  49. メンヘラ.jpに読者投稿を寄稿したい。
  50. 結局お金が欲しい。のでめちゃくちゃ稼ぎたい。

 

はい終了。なんかいろいろ被ってんな?

 

でもこれがわたしが今やりたいこと。たくさんある。メモ書き代わりに置いておこう。

ただのやりたいことリストだけど、人生がいやになったときこれを見て元気が出ればいいなと思う。

欅坂46の個別握手会に行ってきた話

タイトル通り。7月29日土曜日京都パルスプラザ。

第3部(14時半〜)でひらがなけやきの柿崎芽実さん、第4部(16時半〜)で織田奈那さんと握手をしてきました。握手会というものに初めて参戦するわたしはもうめっちゃドキドキしながら行ってきた。

物販があるので早めに行こうと思い12時には京阪の中書島の駅に着いていたけれど、ここで第一関門である。駅からパルスプラザへ向かうバス停はどこなのだ。バスターミナルと名が付いているのだから着いてから訊ける人くらいいるだろうとなんとなく行ったらあの駅、改札にすら人がいない。びっくりした。しかもパルスプラザへ行くバスが来るバス停は5分くらい歩かないといけない場所にあった。不親切極まりない。グーグルマップさんには(日頃からだけど)随分お世話になった。

さあいざ会場へ、と思えば、なんかよくわからない集団がいたり物販かと思ったら写真の交換会をしていたり、すれ違う人たちはみんな絵に描いたようなオタクだし、ここにもまたおののいた。正直、最初の30分あたりは場違い感が半端なかった。

だけど、可笑しいことに小一時間もすればわたしはすっかりそこに馴染んでしまっていた。午後になるほど女性が増えてきたというのもあるだろうけど、なんだかみんなが同じ趣味を持っているという同盟感もあったし、わりと一人で来ている人が多かったので一人でいることが目立たずまったく苦にならなかった。フリースペースで行われていた生写真の交換会や誕生祭のメッセージ受付け(有志だろう)を見て回ったりするとこんな世界があるのかとちょっと感動してしまったくらい。

一度、握手会場の中に迷い込んでしまったものの自分の持っている券は1時間以上後のものだったので、出ることにした。物販やフリースペースは会場の外にあって会場では本当に握手会のみが行われていたんだけれど、わたしはそれを知らず(初めて感が出ている)、日を通して3回も持ち物検査と金属探知機を向けられる羽目になった。

物販を見に行った。そんなに並ばなくてよくてほっとした。わたしはマフラータオルとひらがなけやきの生写真、それから会場限定のガチャガチャコインを2回ぶん買った。しめて3500円。かなり抑えたほうだとわたしは思っているんだけどどうだろう、まあ交通費なんかを考えると妥当なのかもしれない。一万円札を何枚か持って並んでいるおじさんとかが普通にいてうらやましくなったりもした。

さて、第3部の受付時間の14時15分。わたしは柿崎さんオンリーだったのでそんなに早く並ばなくてもよかったんだけれど、準備時間にできた握手の列がなぜか柿崎さんのところだけ異常に短かったのでなんだか悔しくなってすぐにその後ろに並んだ。スーツのお姉さんが本人確認をしてくれた。ちなみに、持ち物検査は女性専用レーンがあって女性の警備員さんが検査をしてくれた。

会場には1stアルバムの曲が次々と流れていて聴いていれば待ち時間は退屈しなかった。半が近づくにつれて、めちゃくちゃ緊張してきた。どれくらいの時間なんだろう、どんな服装なんだろう(これは事前にブログでちょっと聞いてはいたけれど)、何を言おう、とかいろいろ考えてはたのしみだなあとひとり心躍らせた。レーンの先の衝立の前には男性が3人警備、というか、来た人を回す役目なのだろう、立っていた。

時間になって、準備ができたメンバーから始めてください、というアナウンスが流れると、1分ほどしてわたしの(柿崎芽実さんの)列は動き始めた。握手券の枚数で時間が決まるのだが2枚ぶんだとやっぱり短いみたいで、体感的にはかなり早くわたしの番が来た。前の人が喋っているときに後ろにいる人はメンバーが見える。赤い軽そうな浴衣で髪をあげて耳の横だけ垂らしている芽実さんを見て、やばい、いる、と思った。どうぞ、と言われてほぼ駆け寄るかたちで握手をしに行った。

すごい。両手きゅって握ってくれるのな、感激した。いつもブログやなんかで見ている芽実さんの笑顔そのままで、声もかわいくって。ありがとう、と言われるとこちらこそ!という気になる。会話内容はTwitterを引っ張って来ちゃおう。

ザ・最初のあいさつ、って感じになってしまったけれど、訊こうと思っていた好きな色はきけた。急に訊いたにもかかわらず一瞬で答えてくれて、ああ慣れてるなあとなった。感動冷めやらぬまま外に出てさっきの絵を10分ほどで描いてレポをあげた。忘れたくなかった。

次の第4部まで1時間ほどあったので、フリースペースを見て回った。どうせならガチャで引いた2人を(うえむーとはぶちゃんだったんだけど)今日話した2人に替えようと思って缶バッジをトレードした。床にレジャーシートを敷いて生写真やガチャを大量に並べて交換依頼を受けている人たちがたくさんいて、新たな世界を見た気がした。

第4部は始まる前から並んで待っていた。前にたぶん100人はいて、それなのに織田奈那さんの列はまたさっきと同じようにそこだけ短くてやっぱりなんだか悔しかった。開始時間になってもこのレーンだけなかなか始まらなくて、よくパーテーションを見たら「喉の調子がよくないのであんまり声が出せません、すみません( ´﹏` )」というような自筆の紙が貼ってあって一気に心配になってしまった。会話内容は同様以下。

めちゃくちゃ美人だった。写真より本人のほうが100倍かわいいしリアクションも大きくてとっても素敵だった。

ゆっかーとねるさんの祝生誕メッセージだけ書いて、そのまま、ぽーっとした余韻の残るまま帰った。駅メモで駅をいくつか取り逃した。めちゃくちゃ歩いてて疲れてるはずなのに、いつの間にか家に着いていた。

結論。これは癖になりますわあ。また行く。

1stアルバムのリンクでも貼っときますね。

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すきなたべものの話

前回のブログ記事が若干重かった(いつもだけど)ので、今回はアホいおはなし。

わたしはわりと味覚がおこちゃまなので、単純な味が好きである。ハムをそのまま食べたり、味付けのりをぱりぱりぱりぱり貪ったり、うさぎにあげるのと同じレタスにマヨネーズをかけて素手で食べたりする。調理とかめんどくさいので別にそのままでいいじゃん、派である。こじゃれたハーブとか苦手。薄味サイコー。

おこちゃまゆえスパイスもダメ。近所のスープカレー屋さんに行ったらほんとにお子様用の辛さしか食べられなかった。びっくり。わさびもダメ。知らずに食べて涙目、あるある。あと、ししとう。怖いよねーあれ。天然のロシアンルーレット。高校の修学旅行で、テーブルでわたしだけが当たってひとり火を吹きながら生理的な涙を流す、そんな滑稽な役を不本意ながら演じたこともあった。というわけで薄味サイコー。あっでも最近はとうがらしのお菓子だったら辛くても大丈夫になってきたよ。

二番目に、味覚がショボくもあるので、違いがわからない。ウスターソースも中濃ソースもオイスターソースもとんかつソースも何が何やらである。ぜんぶお好みソースで済ませている。 「ひと粒1000円のチョコレートです」とかいってチロルチョコ出されても、たぶんわからない。本当に1000円のチョコレートだったとしてもわからないであろう。

さらに三番目に、安いもので育ってきたのでチープなものを好む傾向にある。お寿司では生の甘えびよりふつうのエビのほうが好きだし、トロは脂っぽくて苦手(関係ないけど同じく脂っぽいのでサーモンは食べられない)。スーパーでは2割引き、半額にすぐに飛びつく。スマホの電卓アプリ片手に、ひとつあたりいくらなのか計算して比べてからお菓子の詰め合わせを買う。ハーゲンダッツってスーパーカップやMOWと何が違うの??

まあこんな感じなので、食にはあまりこだわりがない。もし会社員になって上司にお高いお店に連れて行ってもらっても、「やっぱり先輩の行くお店は格が違いますね〜!」とか口先だけ繕いながら、ファミレスがよかったなーサイゼのミラノ風ドリア食べてえーとか思っているのではないかしらん。

あ、こんだけ言っときながらこだわりを申し上げますと、わたしは生や半熟の卵が食べられない。固ゆで(変換できなくて激おこ)オンリー。すき焼きはそのまんま。土佐弁で「好きだから」は「好きやき」です。

もうひとつのこだわりは、朝はパン。パンパパン。お察しですかはい眠いです。トーストでもコンビニでもスーパーでもなんでもいいけど朝は小麦。wheat。あー別に米粉パンでもいいけど。

あとはチーズ教の信者です。チーズ入れときゃなんとかなると思ってる。

なので、もしこれを読んだ人で何かご飯を食べさせてやろう!とかいう人がいたらチープなコンビニパンでも与えておけば満足するのでどうかよろしくお願いします。ていうか食べ物よりほかの日用品くれ。助けてくれお金がないんだ。あっほしい物リスト置いとこ。 https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/8GRU4FL14PS9/ref=cm_sw_r_cp_an_wl_o_zzDAzbW3QS692 乞食も辞さないスタイル

これ書いてて思ったんだけど、はてなブログって2回改行しないと改行とみなされないの?

セクシャリティの話

わたしは前述のとおり精神疾患を患っていて、休み休み日々を生きなければならない、いうなれば後天的なマイノリティである。

それとは別に、セクシャリティの面でマイノリティでもある。

アセクシャル。ということばがどのくらい世間に知られているのかわからないのでひとことで言いあらわすと、「性的欲求が他人に向かないひと」ということ。(日本ではノンセクシャル、Ace、とよばれたりもする)

これは性的欲求のみの限定で、恋愛感情はある。と思う。この恋愛感情については、〜ロマンティック、と称される。わたしは、パンロマンティック(すべての性に恋愛的感情を抱く)、かつデミロマンティック(かなり親しい人でないと恋愛ということばすら浮かばない)である、と自認している。セクシャリティは揺れ動くもので、わたしも変わったしこれからも変わるかもしれないので一生というわけではないけれど、今のわたしはこうである。(まあ難しく書いたけど「好きになった人が好き、でも超仲良い人じゃないとムリ」ちゅうこっちゃね(小声))

だから何、といわれるといや別に、自己紹介、としか言えないんだけど、書いてみた。こんな人もいる。

本来、こんなに仰々しく名前をつけて自己紹介することもおかしいのだけれど。

昨今のセクシャルマイノリティが注目されつつある(とわたしは思っている)この社会で、LでもGでもBでもTでもないセクシャリティをもつわたしたちはまだ出る杭にすらなっていない気がする。そして、一般の恋愛通念に違和感を持つ人はわたしの知る以上にたくさんいると思っている。そんなもやもやを打ち消して異性恋愛に励んでいる人も。わたしだって、ネット環境がなかったら気のせい、性格のせいにして無理やりしたくもない恋愛をしていたと思う。

むずかしいよねえ、とは常々思っているんだけど、日々を過ごしていてやりづらいなと思ったそのときに自分から声をあげ続けなければいけないんだろうな。きっと今のわたしたちは(性に限らず)多様化が進むちょうどその変わり目にいて、だからその今にみんなして働きかけないといけないんだろう。他人の気持ちや考えなんて誰もわからないものね。

わたしは、わたしたちは、紛れもなく存在する。この存在をまずは知らしめることから始めなければならない。それで、ゆくゆくは「ご結婚は?」という質問に気負うことなくいたって自然に「あーわたしAセクなので」「なるほど」という受け答えが繋がるようになればいいな、と思う。

転換期の話・そして父の話

更新がめんどくさかったので3月で止まっていた。

 

うにゃうにゃ自分史シリーズその3。

(需要があるかはわからないがその1がこれ→幼少時代の話 - 人影のない冷い椅子はで前回がコレ→小学生時代の話 - 人影のない冷い椅子は

 

大阪でぼーっと過ごし習字とピアノを習い、初めてのピアノの発表会を数週間後に控えた小学校4年生の夏休みのこと。

親子3人で過ごしていた家庭に何か異変が起きつつあるのはなんとなく察していた。もともと忙しかった父親の帰りがますます遅くなって、後退していた生え際がさらに目立つようになり、背中が痛い痛いとうめきながら母に湿布を貼ってもらっている姿を見ることが増え、その母も父を手伝いに店に出て一晩中帰ってこないことが増えた。

ここからは記憶が断続的で順番が間違っているかもしれない。あっという間の出来事だったから。

まずひとつの記憶は、夜わたしがふと目を覚ますと枕元に誰かの気配がしたこと。見てみるとそれは父の弟、つまりわたしの叔父で、わたしのほうを向いて正座をして、声を殺して泣いていた。いつも遊んでくれる楽しい叔父が、というか大人が泣くことなんてないと思っていたから、わたしはただただ混乱して、寝ぼけた振りをして二度寝をした。叔父は泣きながらそんなわたしを笑った。

それから、そこからそんなに離れていない日の朝。怒鳴り声で目が覚めた。それも同じ叔父で、電話越しに父に対して怒鳴っているようだった。「何しとんじゃ」とか「謝って済むことか」とか、そんなことが聞こえた気がする。目を覚ましたわたしに気づいた母はそっとわたしを部屋に戻した。それでもなお聞こえてくる止まらない涙混じりの怒鳴り声に、わたしは何も考えられずに戸惑っていた。

最後は、とても静かなダイニング。団地から新しくなったマンションに住みはじめたばかりでまだあまり物のない12畳ほどのフローリングに置かれたテーブルに親子3人が座って、父は悲しんでいるのか何を思っているのかよくわからない顔で黙っていて、母だけが話した。「パパは病気でね」「別々になることになったから」「夏休み中は高知に行こうね」と話す母の目も赤くて、大人が泣くのを初めてこんなに見て、わたしはなんだろう、いたたまれない思いに囚われた。

そのときから、怒鳴るだけじゃなく親の代が泣くのを見るのがとても苦手だ。 

別々になると決まってからの引っ越し作業は淡々と、そして着々と進んだ。母は最低限のものだけを実家に送り、わたしはほとんどの絵本は置きっぱなしにしていた。まだ、わたしは帰ってこれると思っていた。「夏休み中は高知で」ということだけがわたし本人に関することだったので、幼いわたしはそんな気休めだけを信じて最低限のものを持って高知に飛んだ。

それまでにもよく高知の祖母の家(つまり母の実家)には行っていたので、その一環だなと思っていた。親が家を探し始めたのでついて行った。夏休みひと月住むのに家を探すのかあと思った。家が決まった。いろいろな荷物が運び込まれ、まさにここがこれから住む場所かのように設えられた。地元の子ども会に連れて行かれた。運動会に参加した。近所の子と仲良くなった。8月末、2学期が迫っていた。「夏休みだけじゃないん?」わたしは母に訊いた。「うーん、まあ、帰らないよ」母は濁そうとして濁せない感じで答えた。帰らないのかあ、と思った。それだけだった。

「パパはどうしたの?」とも、その少し後に訊いた。「肝臓が悪くて山口県の病院にいる」と返ってきた。あとから(これの数年後)わかったんだけれども、少なくとも病院というのは嘘だった。父がその間どこで何をしていたのか、そもそも父に何があったのか、わたしは想像はつけどもまったく今でも知らない。今は働いて、わたしの近況も知りたがっているらしくたまに写真を母伝てに送ったりする。

パパ、つまりわたしの父親についてはこれがすべて。(このあと成人式のあとに母から詳しく聞いた。→父の話 - 人影のない冷い椅子は

次はわたしの引っ越したあとの小学4年生の2学期から始める。

決めたこと

ここに宣言する。

大学を休学することにした。

第一にどう考えてもわたしには勉学と部活を両立させることができないこと。生活ができないほど潰れる前にはじめてしまった(こう書くとなんだか後悔しているみたいだけど最高の出会いをしたと思っている)から避けられないことではあった。「同期と一緒に卒業する」「同期と一緒に部活を最後までやる」このふたつを天秤にかけて、今しかできない部活、すなわち後者を先に完遂させたいと思った。

第二に、こんなひどい状態で勉強しても単位が取れなくて授業料の無駄だし、もし取れたとしても付け焼き刃になってしまうこと。やりたいことは徹底的に追究したいし集中できない状態で勉強したくない。

このふたつの理由からわたし自身で決めたことである。

Twitterで散々愚痴ったとおり母親とは揉めたけれど、わたしは生来わりと頑固者なので強引に通した。

きっとこれから周りには変な目で見られることもあるだろうし、逆に接し方に困ることも腫れ物のように扱われることもあるだろう。そうやって気を遣わせてしまう可能性があることには申し訳なく思う。

でも。人のことを気にしてやりたいことができないのはもう嫌だ。思ったことが言えないのは嫌だ。日陰者でいるのはウェイの集団を前にしたときだけでじゅうぶんだ。わたしはわたしの決めた道を歩く。助言を聞かなかったせいで高い山を登る羽目になったとしても、人の言うとおりにするよりマシだと思える。そっちに進んでいたら崖を転がり落ちていたかもしれないのだから。

それから、しんどさを抱えた後輩がもしこれから出てきたとしたらこんなやり方もあるよと言える・言ってもらえるような草分け的、ロールモデル的存在になれたら、という考えもある。わたしがロールモデルなんておこがましいかもしれないけれど、そんな立派なものじゃなくてもこんなんでも大学生やっていけたんだよって示すことができたらそれを見た人はきっと楽だ。たぶん。大学の制度なんてそう簡単に変えられないから、まずはわたしが魁になる。どんなに小さくても、その灯りになりたい。逃げだけど逃げじゃない。立派な生存戦略だ。なんとでも言えばいい、わたしは生きかたも死にかたも自分で決める。

後悔はしない。

2017.03.25

小学生時代の話

自分語り再開。ちなみに前回はこれ→幼少時代の話 - 人影のない冷い椅子は

 

小学校に入ったわたし…のことは、正直あまり覚えていない。毎日をぼんやりと過ごしていたからだろう。学校に行って、チューリップが植えられた花壇の横を通って教室に行って、1日そこで過ごして、誰もいない(3時とか4時なので)家に帰って、ランドセルをダイニングに投げ出したままフローリングの床に座って再放送のナースのお仕事牡丹と薔薇はぐれ刑事純情派を見ていた。ぼんやりと。

土曜日はふしぎ星のふたご姫、日曜日はプリキュアを観て親のコンビニに行った。従業員の子どもがわたしと同い年でいつも遊んでいた。その子は少し知恵足らずではあったけれど天真爛漫な子だった。くだらないことでガハハハと一緒に笑うわたしを親は「あの子に合わせなくていい」と言ったけれど、あの子を下に見ていることが見え透いていて(当時わたしも勉強のできないその子をそう思っていたけれど)むしろ反発心でその子に合わせ続けた。

学校では持ち前の人見知りを発揮してなかなか友達を作れずにいたことを覚えている。一度友達と遊ぼう、と待ち合わせをしたことがあるのだけれど、いつまで待っても相手は待ち合わせ場所に来ずそのまま帰った。3歳のころからひどいアトピーに悩まされていたので引っ込み思案なのはその劣等感もあったのだと思う。薬の記憶が強くて今でも顔に何か塗るのはあまり好きではない。何年生のときだったか、転校してきた男の子がいた。それまでクラスメイトたちはわたしの顔や腕のアトピー性皮膚炎に触れないでいてくれたんだけれど、そやつは思ったことを即座に口に出す子で(特別学級にときどき行っていたのでおそらく少し発達に難があったのだと思う)無遠慮にわたしを「ブツブツ」と呼んだ。そのときどう思ったのかはもう覚えていない。ただ給食当番がいつもペアなのが嫌で嫌で仕方がなかった。

1年生から毛筆と硬筆を習いはじめた。たぶん親の意向だったんだと思う。たしかに字が綺麗だとなんとなく印象がいいし褒められると嬉しい。まあそこでも引っ込み思案なので「先生できました」が言えず、見回りに来るまで書き直し続けていたのだけれども。

あとは、そうだなあ、保育園からの友達とその友達の3人でなぜか学校のイベントの野外ステージに出た。大塚愛の『さくらんぼ』。2年生までは出たんだけど、3年生になってメンバーが増えると「ああわたしはここにいてはいけないな」と本能的に察してそのグループから抜けた。友達に引っ張られて一瞬だけ頭を突っ込んだスクールカースト上位の世界だった。

それから、1年生のおわりに学校に人が侵入して先生を殺した。殺人事件だ。その時間は6時間目の時間帯で低学年はもう帰っていて、わたしはやけにうるさいヘリコプターを気にしていた。あとで3人の先生が刺されてひとりが亡くなった事件があったことを知った。担任の先生も刺されていた。まったく実感なんてなくて、そうなのかあ、としか思わなかった。この微妙な倫理観の欠如はいまもわたしの中にあって、欠如があるっておかしいのか、まああって、それはたびたびわたしを悩ませたりもする。ちなみにその先生は幸い数ヶ月後に復帰した。

 

3年生になったときの転校生の女の子がわたしの救世主(そう言ってはちょっと大げさかもしれない)だった。なんだろう、波長が合ったのだと思う。

わたしの記憶では転校してきてかなりすぐに仲良くなった覚えがある。いつもリコーダーを吹いて遊んでいたし冬のマラソンも一緒に走った。家にもお邪魔したこともある。その子はピアノを習っていて、アラベスクを弾いて聴かせてくれた。

その子の影響かどうかは覚えていないけれど、3年生の途中からピアノを習いはじめた。習字と同じように引っ込み思案ながらわりと楽しく通っていたように思う。

そんな、まあまあ平穏(わたしなりに)な大阪での生活は突然終わった。ほんとうに突然だった。次(お節介なリンク→転換期の話・そして父の話 - 人影のない冷い椅子は)でそのことを主観的に綴ろうとおもう。